2012年12月27日木曜日

旋律美の功罪

投稿の題をご覧になって、
ん?旋律は美しいにこしたことはないじゃないか、
とお考えのみなさん、私もそう思っていました。
器楽作品などではそれでいいのかもしれませんが、
ヴェルディの中期作品を考えるうえで、
結構「功罪」両面がポイントになるのではないかと、
いろいろ考えることがあったので、書いてみます。

ヴェルディ中期といわず、全ヴェルディ作品でも
人気の高い「リゴレット」「トロヴァトーレ」「トラヴィアータ」の
3作品ですが、この3作はヴェルディが究極的に
大アリア形式(シェーナ‐カヴァティーナ‐シェーナ‐カバレッタの定型)を
追求した最後の作品であることは指摘されているところですが、
逆に考えれば、つまりは究極的に旋律美を追求した、
とも考えられるわけです。

実際、この3作品は、それぞれの方向性・性格の違いはあれど、
ヴェルディの中でもとりわけ印象深い旋律にあふれていることは
共通して言えると思うのです。

いいことじゃないか、というのはそうなんですが、
リゴレットに関して、ある方と話していてハッとしたのです。

「リゴレットは笑われなくちゃいけないんですよ、
どんなに真面目に怒っても憐れみを求めても。
実際に歌ってみて気が付きました。」

リゴレットは道化です。
その呪われた宿命からは逃れられない、
楽譜を読み込むとそうとしかとれない、というのです。

モンテローネ伯爵を嘲笑の的にしたリゴレットは、
まさに「呪い」のように、自身にも不幸が降りかかるわけで、
愛娘ジルダを返せ、という彼の怒りの様子は、
音楽が迫真なだけにその旋律にまかせて歌ってしまう罠があるのですね。
確かに、リゴレット自身は真面目に怒らなければならない。
でも、観客は廷臣たち同様、それをみて笑う気持ちにさせなければならない。
そうなんです、オペラは演劇なんですよね。

ヴェルディが果てしない同情を寄せて書いた
リゴレットの旋律は、その美しさゆえに、
それだけでドラマを作り出してしまう。
それは歌い手にとっては落とし穴でもあるということなのです。

「トラヴィアータ」ではどうか。
ヴィオレッタに息子と別れてくれ、と迫るジェルモン。
第2幕の2人の二重唱の胸に迫ることといったらありません。
わたしはたびたび泣きそうになります。
ところで、演劇的にこの場面を考えたらどうか?

「かわいそうに、お泣き」と言うジェルモンは、
はたして本心からそう言っているのか。
この二重唱の旋律があまりにも真に迫りすぎ、
私たちはほとんど他の可能性を考えられなくなります。
が、歌詞だけで考えると、
息子と別れてほしい一心で、
みせかけの同情をよせている、
という、あまり考えたくない可能性も排除できないわけです。

ヴェルディの旋律はあまりにも美しく、同情に満ちています。
が、あまりにも美しいため、演劇的にも
美しい解釈しか許されない、というのはどうなんでしょうね?

興味深いことにこの3作以降ヴェルディは大アリア形式と決別します。
私が考えるにこの3作はヴェルディが旧来の形式と旋律美を
徹底的に追求し、そしてそれでどこまで演劇的に
核心に迫れるか、その実験だったように思えてきました。

上記の2つの例だけでも、あまりにも美しい旋律は、
演劇的な解釈の幅を狭めてしまう、
そんな「罪」の部分をヴェルディも感じたのではないでしょうか。



なにかのきっかけでお立ち寄りいただいたみなさん、
今年一年ありがとうございました。

また来年もよろしくお願いいたします。
それではよいお年を。

2012年11月25日日曜日

ロシア文学と地歌・筝曲

今更ながらにドストエフスキーにはまりまして、
3年を費やし、いわゆるドストエフスキー五大長編、
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」や、
ほかのいくつかの作品も読みました。
こんな圧倒的感銘を与えてくれる作品を
今まで読んでいなかったことは、
恥ずかしいことでもありますが、
この年になってもまだ楽しいことが世の中にたくさんある、
と、前向きに考えています。

ところで、私は引っ越しが多く、散逸したものも多いのですが、
両親の青年時代に読んでいた本を多く受け継ぎ、
その意味では読書代は助かりました。
ただし、古い本ですので、旧字体、旧仮名遣いですが。
これはそれでも、ドストエフスキーを読むには幸いしました。
書き散らかしたような面もなきにしもあらずの
彼の文章は、読みやすい翻訳ですと、
意味を深く考えられないので、
読むのにひと手間かかる旧字体、旧仮名遣いは
じっくり意味を受け止めつつ読むにはかえってよかったようです。

さて、本題に入りましょう。
上述の通り、古いドストエフスキー翻訳といえば、
米川正夫氏の翻訳で、少なくとも五大長編は
全て氏の翻訳で読みました。

そして、邦楽にあまり縁のない方は疑問を持たないかもしれませんが、
「米川」という姓は比較的珍しく、
「まさか地歌・筝曲の演奏家を多数輩出している米川家と
関係あるのではないだろうか?」と、気になって調べてみますと、
関係あるどころか、当事者じゃありませんか!

これはびっくりです。
地歌・筝曲の米川家というと、米川文子さん、米川敏子さんは
すでに現在2代目であり、その他大勢演奏家を生んだ
名門といっていいでしょう。
そういう家系ですから、 米川正夫氏も、
幼いころから、箏、三絃の手ほどきは受けていたようです。
しかも、かなりの腕前だったようです。
同好会のようなものを主催し、「残月」を演奏した、という話があります。

「残月」というのは、日本を代表する作曲家、峰崎勾当の代表作の一つで、
演奏時間20分を超える大曲です。
それだけではなく、演奏が本当に大変なんです。
これは「手事もの」といわれる、中間部に長い器楽間奏部をもつ歌曲ですが、
まず、唄部分が、ほかの手事ものと異なり、ずっとスローなままです。
これを聴かせるには大変な唄の実力が必要です。
さらに手事、この曲の手事は、五段からなる大規模なもので、
しかも唄部分と激しい対照をなす、きわめて華やかなものです。
ここでは楽器の腕が厳しく問われます。
そして、演奏至難という以前に、この曲の格は非常に高く、
ただ「演奏できる」という程度の人間に演奏が許される曲ではないのです。

「残月」の箏の手付はいろいろあるのですが、
米川正夫氏の兄にあたる琴翁の手付は米川家系の演奏家では
ひろく演奏されています。
それだけ米川家ではいっそう大切でしょうから、なおさらです。

なお、 米川正夫氏の主催していた「桑原会」には
内田百閒なども参加していたようです。
内田百閒のほうもこちらでも面白いエピソードがあり、
宮城道夫と合奏した様子などを自作に書いていたりします。

なんにせよ、戦前のインテリの底力というものを感じます。
当時は専門だけではなく、趣味でも一流でこそ、ということが
あったのでしょうね、とても現代では考えられません。
「嗜む」趣味人は現代でも多いでしょうが、
上述の通り、玄人はだしのこういった知識人が
すくなくなかったというのは、見習うべき点でしょう。

2012年11月7日水曜日

ワーグナー「オランダ人」の様式的違和感

私は難しい台本が苦手で、ワーグナーはあまり聴かないのですが、
だからこそ歴史的録音はほとんど聴いていないため、
迷わず購入したのがこれ。

バイロイトの遺産~ワーグナーの幻想

 

(Amazon) (HMV)

まず思ったのは、オケの精度という点では、
確かに現代のオケのほうが優秀かもしれない。
だけど、なんというか、映画音楽を聴いているような気がするんです。
メトの「指輪」の最新映像など、舞台の豪華絢爛さもありますが、
なにかハリウッド映画を見ている気分になります。

別に本場が一番というわけではないですが、
上記のBOXに含まれる歴史的演奏は、
メカニックの精度を語るのは何か違う気がしました。
それに、歌手は断然現代よりいいですね。
これはロッシーニなどと正反対のことなので興味深いです。

ところで、以前からどうも居心地のわるい作品があって、
それが「さまよえるオランダ人」なのです。
どうしても違和感がぬぐえない。
この素晴らしいBOXセットでもそれは変わりませんでした。

そんなとき、ピリオド楽器による、初稿による
「オランダ人」の演奏をみつけました。
ヴァイル指揮カペラ・コロニエンシスによるものです。



国内盤  (Amazon) (HMV)
輸入盤  (Amazon) (HMV) 

ここで重要なのは、ピリオド楽器演奏ということよりも、
完全なる初稿を使用しているという点です。
詳しくはライナーノートに譲りますが、
ワーグナーは生涯にわたってこの作品を改訂し続け、
結果的に実用譜のもととなりえる稿を残さなかったのです。
これは「リエンツィ」も同様なのですが、
ワーグナー自身、ひいてはバイロイトで否定された過去である
「リエンツィ」と違い、オランダ人はバイロイトの演目にもなります
(「リエンツィ」をいくら否定しようと、原点であることには違いなく、
それを自覚しているからこそ余計に葬り去りたかったんでしょうが)。

そこで、出版に当たり、ワインガルトナーが一種の
架空の稿を仕立てたのです。
これはある程度仕方ないことだったとは思います。
なにしろこの作業はワーグナーの死後、1896年に行われたものですから。

ただし、当時としては「指輪」や「パルシファル」を皆が経験しており、
晩年のワーグナーの響きにあまりにもなじみすぎていたのでしょうね。
この初稿による演奏は、ある意味「リエンツィ」の影が見えるともいえます。
言い換えれば、グランド・オペラの要素が垣間見えます。

ワーグナーが生涯にわたって、10回以上の改訂をつづけたのも、
結局それが多かれ少なかれ影響しているように思います。
ただ、「リエンツィ」と決定的に違うのは、台本です。
「オランダ人」ではすでにワーグナーの世界が出来上がっています。
ただ、音楽は台本ほどには決定的にワーグナーではないと思いました。

つまり、ワインガルトナー版、つまり出版譜は、
あちこちの改訂を切り貼りし、ワーグナー自身でさえ
ついになしえなかった「体系的改訂」を
他人が無理やりやったものなんですね。
ああ、なるほど、と思いました。
どうも居心地わるい気分なのは、こういう背景があったわけですか。

たとえば、有名なゼンタのバラード 、
初稿ではイ短調(出版譜はト短調)ですが、
音を下げたのは、たぶん、ロッシーニあるいはマイアベーアの
グランド・オペラのソプラノではなく、
ドラマティック・ソプラノで映えるように、という配慮じゃないでしょうかね。
このバラード、いつ聴いても違和感を覚えていたのですが、
本来もっと軽やかな声質が前提だったように思います。
これを晩年のワーグナーの様式に無理なく溶け込ませるには、
本来なら全面的に書きかえなきゃだめでしょうね。

さて、「オランダ人」をどうあつかうか、ですが、
ワインガルトナー版ではやはり無理があると思います。
ワーグナー自身が不満であったとしても、統一感のある初稿を使うか、
様式的齟齬を承知の上でそれでもワインガルトナー版を使うか。

はじめに書いた通り、私は決してワグネリアンではありませんので、
生粋のワグネリアンの方はどうお考えなのか、興味のあるところです。

2012年10月20日土曜日

主観的好みと客観的評価

「これは名曲だから好きだ」とか、
「これは有名じゃないから嫌い」とか、
そういう人は少ないと思います。
昔はともかく、今は音盤が廉価になり、
自分の好みの作品をみつける、という楽しみがあります。

ただ、私は、自分自身の主観的な好みと
客観的な評価は自分の中でも区別しています。
たとえば、J.S.バッハの偉大さには全く異論ありませんが、
実際に聴く機会が多いのは、エマヌエル・バッハだったりします。
これはもう、自分の好みですからしかたないのですが、
親父さんの作品は、情報量が多すぎて、気楽に聴くことができないんです。
ある程度、「覚悟」をもって臨まないと、情報量に埋もれて
溺れ死ぬような感覚になってしまうんです。
エマヌエルの場合は、「びっくり箱」みたいな部分はあるにせよ、
いや、だからこそ無心に聴くことができるんです。
あくまで私の場合はそうだということで、
皆がそうではないことはきちんとわかっています。

さて、そんな自分の好みの作曲家の好みの作品、
たとえばこんなものがあります。

ライネッケ:管楽三重奏曲集



(Amazon) (HMV)

ええ、わかっています。ライネッケが一流の
作曲家なんていうつもりは毛頭ありません。
しかし、少なくとも管楽器奏者にとって、
ライネッケという名前は特別なものではあります。
とくにフルート奏者でライネッケのフルートソナタや
協奏曲を吹かない人はいないでしょう。

ライネッケの一流になりきれない点というのは
メンデルスゾーンが彼に宛てた手紙にて鋭く指摘されています。

「第1楽章が非常に魅力的な曲が多いが、最後までそれを持続しなさい」

このCDの3作品は晩年のもののためか、
その弱点はかなり克服されていますが、
ライネッケ作品全体としての弱点は、
まさにメンデルスゾーンの言うとおりかと思います。

私とライネッケの出会いは小学生のころ、
とにかく短調の作品を片っ端から
エアチェック(FM放送の録音)していたころです。
そう、フルートソナタホ短調「ウンディーネ」。
そんな有名曲と知る由も無く、
そうした無差別録音の網にかかった作品で、
私はライネッケという名前を忘れることが出来なくなりました。

まあ、上述のとおり、有名か無名か、そんなこともわからず、
ただひたすらに無差別に聴いていたことはよかったと思います。
権威がなんと言おうと、自分の好きなものは好きなままでいられる、
そんな姿勢が養われました。

このCDの3作品は、いずれも
ライネッケの室内楽作品では重要な作品です。
古楽と現代音楽以外同曲異演は極力買わない私ですが、
これらの作品は目に付く限り買って来ました。
そして、やっと出会えた演奏であるといえます。
モダン楽器演奏ではおそらくこれ以上の演奏は望めないでしょう。

名曲が名曲たる所以は、作品と同等の集中力を要求することです。
私には、名曲ばかり毎日聴くだけの集中力はありません。
そうしたとき、こうした「よき二流作品」は私を元気にしてくれます。
いろいろな作品があるからこそ、幸せなのだと思います。

2012年9月26日水曜日

藝大邦楽科では何が起きているのか?

邦楽の教育の頂点は、藝大の邦楽科だということは間違いないでしょう。
ただ、いろいろ、変なところがあるように思います。

まず、地歌・筝曲。ピッチが442固定なんだそうですね。
いやまあ、箏と三絃だけの合奏ならそれでもいいんでしょうけど、
尺八が入っても442固定というのはどうなんですか?
精密機械のごとく変貌した西洋の現代の楽器でも、
たとえば中学・高校での吹奏楽部で、
季節、天候など関係なしにピッチ固定なんてやってるところはないでしょう?
すくなくともわたしの中学・高校時代は、
合奏練習するときは指揮者が季節、天候を考慮して
基準ピッチを指示するところから始まっていましたけど…。
まして、素朴な楽器である尺八が、季節、天候関係なく
どんなときでも442固定で合奏するって変な話ですね。

まあ、できなくはないんですよ。
冬や悪天候のときはカリぎみに、
夏や好天のときはメリぎみに、
全体を通して吹き続ければいいんですね。
でも、やっぱり私はおかしいように思います。
そもそも邦楽なら雅楽基準の430でしょう。
それならまだわかります。

あと、西洋和声の授業も必修らしいのですが、
はじめのころは邦楽科の生徒は2度の和音ばかりで
回答して、教授がいい加減にしろ、って怒ったら、
だってこっちのほうが奇麗ですよ、と、みんな真顔で答えた、
というエピソードもあり、教えるほうも、本当にこの人たちに
教えていいのか恐ろしくなったらしいですが、
たとえば、藝大出身の能管奏者・一噌幸政師は、
普通なら7度や7度半になる音程を、完全八度に補正して
吹くと、ちょっと話題になったらしいです。昔のことですが。
今は、プロの若手藝大出身笛奏者にきいたら、
「みんな音感わるいんですよ、能楽囃子はイ短調!」
(注:能楽囃子は基本的に黄鐘(A)基調です)
と断言してびっくりしたことがあります。

でも、かりに旋律がイ短調だったとして、
能楽囃子がイ短調というからには、
機能和声に基づいているということじゃないですか?
「音階」あるいは「旋法」だけの問題ではなくなってしまうと思うんです。

たとえば、地歌の「夕顔」の出だしを機能和声的に考えるとします。
主音がDの場合、BとEにフラットがつくのはどうしようもない違いですが。
あと、導音は常に長二度ですのでCに♯はつきません。
これらの臨時記号を念頭におくと、

D D B♭A  A A  GE♭ D

I  I    V  DIII6VI7  II7V7   I

これが仮に西洋音楽だとするとこうなりますかね。
まあ、終止形が短二度下降が決まりなので無理やりです。
でも明らかにおかしいことは、邦楽をよく知らない方でもわかるはずです。
こんな伴奏がついたら、もう邦楽じゃないですよ。
ただ、上述のプロの藝大出身の若手奏者の「能楽囃子はイ短調説」が
正しいとすると、究極的にはほかの邦楽も機能和声に
支配されているということになる。

昔の和声の授業のエピソードとの比較で、
もしかして今の藝大では古典でもこんな教え方をしているんでしょうか?
だとしたら、現在致命的に古典を演奏できる奏者がいないことは
なるほどと、理解できます。

いいとか悪いとかはさておき、藝大を出た箏や尺八奏者は、
だいたい3か月ごとに新作の初演をやっていて、
とても古典にまで手が回らないそうです。
そうした新作は、西洋音楽の手法で作曲されていますから、
もしかして藝大では西洋和声を中心に教えているのではないかと
勘繰ってしまいます。冒頭のピッチの442固定といい、
いまどき中学校のブラスバンドでもやらないようなことが
まかり通っていることを知って、現状を知りたいなと思っています。

2012年9月20日木曜日

ディーリアスあれこれ

今年はディーリアス生誕150周年ということで、
地味ながらいろいろとディスクも出ています。
名盤BOXを中心に概括してみます。

トマス・ビーチャム/イングリッシュ・ミュージック(6CD限定盤)



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これは実質的にディーリアス5枚組に
1枚のオマケがついているようなものです(笑)。

いうまでもなく、ビーチャムはディーリアスの
熱烈な擁護者で、録音が簡単でなかったこの時代に、
現代音楽をこれだけ大量に残すこと自体すごいことです。

このBOXのリマスタリングは非常によく、
モノラル期の録音の良さを感じさせてくれます。

私がディーリアスを真面目に聴き始めたのはつい最近で、
伝説的なビーチャム指揮のディーリアスがまとめて
入手できることができ、後発組のメリットが活かせました。

演奏の感想などは後述のまとめで。


ディーリアス生誕150年記念ボックス(18CD限定盤)


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これはさすがEMI、ディーリアス録音に賭けているなあ、と
圧倒されます。ビーチャム、バルビローリの大御所ふたりから、
メレディス・デービス、チャールズ・グローブスなど、
ディーリアス演奏史がそのままBOXになった感じです。

歌詞がないのが残念なのですが
(EMIの廉価オペラシリーズでは、歌詞対訳をCD-ROMで付属しているので
同じEMIの廉価盤ということでなおさら惜しい)、
3つのオペラをはじめ、「人生のミサ」「レクイエム」をはじめ、
管弦楽と声楽の大規模作品が一望できます。
本当に、歌詞がついていれば…。

私は最初にディーリアスを聴いたのは、ここにある数々の演奏なので、
個人的思い入れがあるため、客観的判断ができるかわかりませんが、
いきなりこれだけの集成を入手できるというのはすごい時代です。

ディーリアス・エディション マッケラス&ウェールズ・ナショナル・オペラ管、他(8CD)


(Amazon) (HMV)
対して、イギリスのもうひとつの雄、DeccaのBOXです。
これは惜しくも亡くなったマッケラスを中心にしています。
マッケラスは、ほかのオペラの録音の構想も持っていたらしく、
働き盛りでの急逝は惜しまれてなりません。

演奏の感想は後述のまとめで。

Delius Collection(7CD)
(Amazon) (HMV)

そして、これはある意味目玉です。
画像がまだ登録されていないのでこのかたちで紹介します。
これは、ディーリアスが全盲となったのち、
口述筆記で作曲をした、その共同作業者、
フェンビーの指揮が中心の、Unicorn-Kanchanaからかつて
リリースされていた7枚の「Delius Collection」 のBOX化です。
このレーベルはすでになく、長らく入手不可だったものを、
Heritage が出してくれました。


さて、そろそろそれぞれの感想など。
ビーチャムはどうやらディーリアスを印象派風にとらえ、
かつての印象派演奏の手法を援用しているように感じます。
おそらく、現代音楽としてのディーリアスを紹介したかったのでしょう。
それが、長らく受け継がれているように思いました。
それがEMIのBOXです。

対して、ヤナーチェクの権威としても知られるマッケラス、
彼は、声楽作品でより違った視点を持っているように感じます。
言葉というものはとても生命力がある。
それはヤナーチェクの生命力の根源ですが、
声楽作品に名作の多いディーリアスでもどこかその
生命力を発揮しているような気がします。
はたしてこれが、この先のディーリアス演奏にどう影響するか、
ちょっと注目してみたいところです。

そしてフェンビー。彼はあくまで作曲家であって、
職業指揮者ではありません。
そのためなのか、印象派風の雰囲気はあまり出しません。
そのかわり、霧が晴れたように、作品の骨格がはっきりと
姿を現すんです。これはびっくりしました。
ディーリアスの作曲手法は基本的には変奏技法です。
「アパラチア」や「ブリッグの定期市」のように、
はっきりした変奏曲形式を使っているものはもちろん、
たえず前段の変奏が連続して結果的に構造的に堅固なものに
なっているんです。これはフェンビーの指揮で初めて気が付きました。
まあ時代もあるかもしれません。80年代になると、かつてのように
印象派の作品だから、と、輪郭をぼやかすほうがよい、というような
風潮はなくなってきていました。
だから、フェンビーがどこまで意図的だったかはわかりません。
でも、結果として、ディーリアスが堅固な形式感覚によって
作曲をしていたということをまざまざとみせつける。
面白いと思います。

さて、ディーリアスのBOXがこれだけでても、まだまだ
初期オペラをはじめ(BBCとArabesqueに音源はあるんです!)、
出ていない作品がたくさんあります。
Stoneはディーリアスの歌曲の集成を進めています。
まだまだ未知の作品、演奏を楽しめそうですね。

2012年9月9日日曜日

洋楽?邦楽?

私が評価する「現代邦楽」はどんなものがあるか?
という質問をされて、考えているうちにいろいろわからなくなってきました。

「邦楽器を使った作品」ということであれば、
諸井誠さんの「竹籟五章」、武満徹さんの「秋庭歌一具」
あたりは評価しているけれども、これは洋楽の作曲家の作品。
ということで、下山一二三さんの作品などはどうかな、と思ったのですが、
今更になって調べてみたら、なんと松平頼則さんの弟子筋にあたる方。

もともと下山一二三さんの作品を知るきっかけは、
師匠の息子さんのCD(尺八とピアノのための作品集)で、
聴いていて、正直作品の質が…と思っていたのですが、
おひとり、下山一二三さんの作品が際立っていたので注目したことでした。
不思議なことに、あまり現代音楽界隈で下山一二三さんは話題に上らず、
邦楽の作曲家と誤解していました。
完全に無知ゆえでお恥ずかしいのですが…。

しかし、ここにきて、ちょっと自分でもわからなくなってきたことがあります。
楽器の区別が絶対的な「洋楽」「邦楽」の区別の基準なのか?
と。

いわゆる邦楽器専門の「現代邦楽」作品は、
楽器こそ確かに邦楽器ですが、語法は西洋音楽です。
たとえ、和風な味付けをしてあっても、
それはロマン派における国民楽派的なものの域を超えるものではないです。
それはたとえ天才・宮城道雄とて例外ではありません。
宮城道雄は形式的には手事物などもかなり残していますし、
それなりに伝統に気を配っていたことはうかがえるのですが、
やはりそういう時代だったのでしょう。
もちろん、それは質とはまた違う話で、
宮城道雄が天才だったのは、そうした創作の仕方でも
質を保てたところでしょう。

対して、洋楽の作曲家の中で、
たとえば私が峰崎勾当以来の日本の大作曲家と
考えている松平頼則さん、膨大な作品を残していますが、
初演すらされていない作品も多く、私の所持CDは4枚だけ、
他に聴いたことがあるのはピアノ組曲「美しい日本」と、
先日ラジオ放送されたコンチェルティーノだけ。
それでも、全てが高水準を保っているのは驚くべきことで、
洋楽器を使い、洋楽の語法を使いながらも、
巧みに雅楽などの要素を消化している、ちょっと考えられない作風です。
はたして、これを洋楽とだけ評価していいものだろうか?と。

先日演奏会で聴いた「美しい日本」、各種伝統音楽を題材にしています。
雅楽はもちろん、平曲、筝曲、民謡…。
それらの「国民楽派的」利用ではなく、構造そのものを利用しているわけです。
平曲については勉強不足で、ちょっとわからなかったのですが、
平曲をご存じのかたは「あれは間違いなく平曲」だと
おっしゃっていたのが印象的でした。
そうだろうな、と思うのは、この組曲の終曲、「箏曲風の終曲(茶音頭)」が
見事に手事物形式で、初めて聴くにもかかわらず、
「あ、手事に入った」「チラシだな」「ここから後唄か」と、
不思議なことに体が反応していたからです。
茶音頭の具体的な旋律の引用があったかどうか、それはわかりません。
あるにしても、おそらく分解されて知覚できなくなっていると思われます。
これは本当に不思議なことで、科学的説明を求められると困るのですが…。

こういう音楽を、洋楽器を用いているから、とか、
洋楽の作曲家であるから、という理由で「洋楽」と
単純にジャンル分けしていいのかな、と
前から思っていたのですが、まだ松平頼則さんの場合は洋楽器を使っている、
ということで、仕方がないかも、と思っていました。

しかし、下山一二三さんの場合には、邦楽器を使った作品が
それなりの数あります。実際無知ゆえとはいえ、
邦楽系の作曲家と誤解していましたし。
こうした場合、もう「洋楽の作曲家だから」と、
邦楽から切り離すのはどうなんだろう、と。

弟子筋にあたるとはいえ、松平頼則さんの高雅な書法と、
下山一二三さんの強烈な情念とは対極です。
しかし、これだけ面白い曲を書いていた人が
松平頼則さんの門下ということを知り、妙に納得したりもしました。

国際的に評価が高い細川俊夫さん、彼は私はどうも苦手です。
たとえば箏、三絃、尺八のための「断章Ⅰ」。
これは細川俊夫さんの80年代の特徴的な語法の作品ですが、
伝統との断絶を痛烈に感じます。
また同じく80年代の「観念の種子」。
これは声明と雅楽のための作品ですが
古来の五行思想を持ち出したりしていますが、
まったく細川俊夫さん流にアレンジされていて、
こちらもまったく伝統音楽の香りはみじんも感じない。

私は何しろ、作曲などという高度な創作行為に関して素人ですので、
何がここまで松平頼則さんと細川俊夫さんをして
伝統を感じるかどうかの差異を生じさせたのか、
専門的見地から説明はできないのですが…。
お二人とも、伝統音楽をそのまま使うのではなく、
自分なりに消化したうえで創作されているので、
表面的に和風な味付けをしているというわけではないのです。
これはもう、一応伝統音楽の片隅にいる者としての嗅覚です。

少々話がずれました。
さて、邦楽器を使えばそのまま「邦楽」になるのか、
洋楽器を使いつつも「邦楽」ということは絶対にありえないのか、

洋楽とか邦楽っていうのはなんなのでしょう?

2012年9月8日土曜日

ロッシーニの「歴史的名盤」は信用するべからず!

このブログで、事あるごとに書いてきましたが、
ヴェルディやワーグナーはともかく、
ロッシーニに関しては、過去のどんな名歌手よりも、
現代のスペシャリストの方が断然いいです。
最近「セミラーミデ」の2つの演奏で再確認したので書いてみます。

「セミラーミデ」はロッシーニのイタリア時代最後の大作にして傑作です。
非常な難曲でもあり、復活させたといわれ、「歴史的名盤」 とも言われる
サザーランドとマリリン・ホーンのコンビ、ボニング指揮のDECCA盤で、
私は最初に聴きました。
廉価版ですが、対訳もついていて、お得だと思ったからです。

ですが、ああ、なんと浅はかだったことか!
この盤は問題だらけです。ですからリンクも貼りません。

まず、女性2人、サザーランドとマリリン・ホーンは、
なんとか装飾音形もこなしていますが、それだけなんです。
それ以上のことはなにもできていない。
劇性も愉悦もありません。
でも、男声陣はもっと悲惨です。
概してロッシーニのテノールは難しく、
それゆえに現代ではいわゆる「ロッシーニ・テノール」という
専門歌手がいるわけですが、
この録音当時、1966年でそれは望むべくもなかったわけで。
聴いているだけで苦痛なレベルです。

そして、大規模なカットがあります。
およそ全曲の三分の二くらいの長さまで刈り込まれています。
それだけならまだしも、この曲の最大の見せ場、
ラストが改変されています
ネタバレになるので大まかに言えば、ハッピーエンドなのですが、

これは致命的です。
ラストのアルサーチェの即位を喜ぶ民衆の合唱、
これには一抹の陰りがあるんですよ。
ヴェルディは、個人の悲劇と民衆の喜びを重ね合わせて
幕とすることを得意としましたが、
このラストの合唱はいわばその萌芽です。

さらに言えば、ボニングの指揮。
この人、凡庸だとかやる気がないとかいろいろ言われることが多いですが、
少なくともこの録音はそういわれても仕方がないと、
後述のゼッダ盤を聴いて思いました。

さて、もう最初に聴いただけで憤懣やるかたなく、
1992年のロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける
ゼッダ指揮のライヴ録音(廃盤)を中古で入手しました。
ゼッダの指揮は遅いどころか、歌手の技量が低く、
体感的にも重いボニング盤よりも快活で、かといって
スピードを出しすぎることなく、まさに愉悦を感じます。
それにもかかわらず、およそ4時間という長さなんです!
改めて「セミラーミデ」は本来こうした大作だったのだと実感。
でも、ぜんぜん長いと感じませんよ!

歌手陣は、丁寧に歌っていますし、技量もあります。
現代のロッシーニ歌手ならもっと上かもしれませんが、
不満を抱くほどではないです。上出来です。
ライヴ録音ということで、 最高の音質というわけではないですが、
私はむしろ、ライヴならではの熱気の方が長所になっていると
感じました。個人的にはライヴ録音好きなんです。

これは完全ノーカットの上、ラストの改竄もされていない
きちんとした本来の歌詞です。
アルサーチェの絶望をしらない民衆の合唱、
そうすると、ときおり混じる陰りが活きてくるわけです。

ゼッダの指揮はやはりよいです。
この演奏を聴いて、ボニング盤がいかに凡庸な指揮だったかわかりました。
恐怖の表現、勇ましさの表現、愛の表現、絶望の表現、
そして愉悦。すべてにおいてさすがと思わせられました。

それにしても、ゼッダ盤がある現代においてなお、
ボニング盤が「名盤」扱いされているのは、
どうにも理解に苦しみます。
やはりロッシーニにおいては、新しい演奏の方がよく、
「歴史的名盤」というのはアテにならないと、
何度目かわかりませんがまた確認した次第です。

2012年8月4日土曜日

マリア・カラス「30のオペラ全曲盤」BOX

実を言うと、長いことマリア・カラスは苦手でした。
主に2つ理由があったのではないかと思います。

1.オペラを聴き始めたばかりの頃に聴いたこと

最近まとめてカラスを聴いて感じたのですが、
その声そのものよりもなによりも、役作りが非常に上手いということ。
そのオペラがどんな作品か、その登場人物がどのような役柄か、
私自身がよくわかっていなかったため、この点において
役作りの巧みさということがまったくわからなかったこと。

2.ステレオ録音しか聴いていなかったこと

そしてもうひとつ、カラスの全盛期を過ぎた時期の
録音しか聴いていなかったこと。
今回モノラル期、1949年から1957年の録音を聴いて、
彼女の全盛期が驚くほど短かったことがよくわかりました。


今回まとめて聴いたのはこれです。

マリア・カラス 30のオペラ全曲集(64CD+1ボーナスCD+1CD-ROM)


(HMV) (Amazon)

今回の商品はあまりに価格差がありすぎるので、
安いHMVを先にリンクしました。

さて、とりあえずこれだけ浴びるほどにカラスを聴くと、
とりあえず昔からの苦手意識はとりあえず払拭でき、
幾分公正な判断ができるようになったと思います。

すぐれたベルカント歌手のひとりであるということは、
やっとわかってきました。
それに、カラス(やほかの歌手たち)が復活させなければ、
ロッシーニやドニゼッティのオペラは
未だに一部の作品だけしか聴くことができなかったでしょう。

ただ、私はロッシーニやベッリーニに関しては、
カラスの優れた役作りを認めつつも、最上というには戸惑いがあります。
様式的にはやはりもっと軽い声質で、装飾を聴かせる歌手のほうが
しっくり来ると思います。これは豪華な共演している他の歌手にもいえますが。
ドニゼッティはアンナ・ボレーナあたりは難しいところですね。
たしかに伝説的な演奏だけあって圧倒されたのは事実ですが、
ドニゼッティ作品として、ということであるとどうなのだろう?と。

ヴェルディやプッチーニに関しては、一部の作品を除いては、
こうした不満を感じることはなく、
共演している ディ・ステーファノやゴッビという名歌手、
セラフィンやヴォットーといった指揮者ともども、
すぐれたオペラ全曲の歴史的録音として楽しめました。

一部の作品を除いて、と述べましたが、
たとえば「トロヴァトーレ」。
カラスがあまりにも圧倒的な存在感があるものですから、
ヴェルディ自身この作品の中心軸として考えていた
アズチェーナより存在感があるのはこまりますよね。
レオノーラの役はつくっているのですけれど、
まあこれはいかんともしがたい。
ピリオド楽器による「トロヴァトーレ」 について書いたとき、
アズチェーナだけ異質だったのをいぶかったものですが、
よく考えてみるとやはり意図的だったといえるのかもしれませんね。

そしてカラヤンの指揮も、この作品の録音に関しては
作為的なところが多少鼻につきました。
旋律美という点においてはおそらくヴェルディでも随一と思われる
この作品を、素直に聴かせるというのは意外に難しいのかもしれません。
セラフィン盤が「トロヴァトーレ」の名盤とされるのはこういうところかな、と。

逆に圧倒的だったのはマクベス夫人です。
これは全曲盤としても、 デ・サーバタのキビキビした音楽作りもあって
すばらしいのですが、カラスの歌という点でも最上のものの一つでしょうね。
ヴェルディはこの役について、マクベス夫人を歌った歌手を例に出し、
こう述べたということです。決して美声とはいえないカラスにとって、
まさしくうってつけの役だということがわかります。

「タドリーニはたいへん美しくて立派な歌手だが、私はマクベス夫人は
醜くて邪悪に見えるべきだと思う。タドリーニは完璧に歌うが、
マクベス夫人は歌ってはならないのだ。
タドリーニはすばらしく透明で力強い美声をもっているが、
私はマクベス夫人の声はむしろしゃがれていて、
暗い響きがするべきだと思う。
タドリーニの声は天使の声のようにきこえるが、
私はマクベス夫人の声はもっと
悪魔的にきこえるべきだと考える。」

(ヴェルディ全オペラ解説 1[高崎保男]より引用)

(Amazon) (HMV)

もうひとつ、作品自体のことで。
ロッシーニなどでは最近の専門の歌手のほうが
絶対的にいいと思いましたが、
スポンティーニやグルックに関しては、これはこれでありだな、と。
マイアベーア→スポンティーニ→グルックとさかのぼっていくと、
不思議なほど違和感がありません。
まあ、マイアベーアの無国籍風音楽
(フランス・グランド・オペラの代表的作曲家でありながら!)と、
フランスの伝統に基づいたスポンティーニとグルックは、
かなり違うはずなのですが、
妙に扇情的なその音楽は本質的な部分で似ているのかも、と感じました。
そういう音楽では確かにカラスは圧倒的な存在感を示すので、
そういう意味で、「これはこれであり」と思ったわけです。

2012年7月24日火曜日

お経と尺八古典本曲

先日犬の三回忌の法事に出ました。
もうそんなになるんだなあ、と。


その法事の時、読経を聴いていて、

「レ〜ーレ チメーチメウー レ〜−レ」
(ファ/ソーソ ラ♭↑ーラ♭↑ラ♭↓ー ファ/ソーソ[矢印は微分音])

という、尺八古典本曲に頻出するフレーズがあって興味深かったです。
もともと普化宗で読経や座禅の代わりだったのが尺八古典本曲ですから、
宗派は違えども、なにか関連あるか、
日本人の嗜好に合うフレーズなのか。

特に「チメーチメウー」は重要で、
関西系では素朴に演奏されますが、
琴古流本曲、東北系本曲、津軽根笹派など、
諸流派ではこの音型が独自に装飾されます。
注意深く聴かないと元が同じとは聞こえないほどにそれぞれ
特色のあるフレーズになっています。
この法事で聴いたのは、関西系に近い、
無装飾の素朴な基本形でした。

また、いつだったか忘れましたが、読経の最初、最後が

「レーレロー」
(ソーソレー)

という完全四度下降音型で、東北系の尺八古典本曲の
典型的な始まり方、終わり方で驚いたこともあります。

ただ、よく考えてみれば、下降四度というのは、
近世邦楽にとっていわば音楽の「核」ですので、
偶然でもなんでもなく、そういった共通要素があるのは
むしろ自然なことなんですね。
やはり読経というのも音楽なのだと強く意識しました。

こういうことが考えられるくらいには
法事も冷静に迎えられるようになりました。

2012年7月14日土曜日

オペラにおける視覚の重要性

なぜ今更こんな当たり前のことをテーマにしようと思ったかと言いますと、
グノーの「ミレイユ」のBDを観て痛烈に感じたからです。

グノー:『ミレイユ』全曲 N.ジョエル演出、ミンコフスキ&パリ・オペラ座、ムーラ、カストロノヴォ、他(2009 ステレオ)

(Amazon) (HMV) 


グノー はマスネ以前におけるフランス・ロマン派のオペラ作曲家として
重要な位置を占めていますが、映像は珍しいです。
「ファウスト」以外は音盤も珍しいといった具合で、
ですから、ミンコフスキが指揮した映像ともなれば断然「買い」となります。
 
HMVのリンク先にはいつの間にかあらすじが載せられていますが、
私が買ったときは何もなかったので、本当に何も知らない状態で
このBDを観ました。

話としてはベタもベタ、愛し合うカップルが男の貧しさゆえ、
裕福なヒロインの親に結婚を反対される、というもの。
さて、結末は?というところなのですが、
よくもこんな単純な話を全5幕2時間半もの
大作に仕上げたものだと感心します(笑)。

しかし、この上演、南仏の美しさが際立っていて、
夕暮れ時や夜、明け方、真昼、といった各時間による違い、
麦畑の美しい情景、夜の不気味さ、砂漠の容赦ない日差し、
とてもすばらしく視覚化されています。
とても舞台の上とは思えないほどにすばらしいものです。

台本のあらすじは単純ですが、たとえば収穫祭などでは
喜ばしい踊り、第3幕では嫉妬に狂ったウリアスや、
その後の逃亡での夜の不気味さ、
終幕では、宗教音楽の大家でもあったグノーらしい幕切れと、
なかなかに多様な音楽を作曲できるように
下準備はされていると感じました。
このあたりは台本作家は十分に役目を果たしています。

実は、以前音盤だけで聴いたときには、
正直この作品は退屈だったのです。
この映像は確かにミンコフスキのメリハリの利いた音楽作りの
すばらしさもありますが、それ以上に舞台の美しさが
ひときわ目立ったものでした。


この作品は南仏の風景の美しさと一体になったとき、
はじめてその音楽が活きてくるものだと痛感したのです。
その意味ではジョエルの演出は、ミンコフスキの指揮とともに
大いにたたえられてよいと思います。

この作品は、ほかのどんなオペラよりも、
映像が大切だと思います。
音盤で退屈な思いをされた方にこそ、
この映像を観ていただきたいと思います。

2012年7月8日日曜日

ヘンデルのカンタータにおけるピッチの問題

Brilliant Classics レーベルにおいて、Contrasto Armonico演奏による、
通奏低音のみの伴奏のカンタータを含めた
「完全なカンタータ全集」が始動しています。
すでに第4集までリリースされ、お耳にされた方も多いと思います。

・Vol.1 (Amazon) (HMV)
・Vol.2 (Amazon) (HMV)
・Vol.3 (Amazon) (HMV)
・Vol.4  (Amazon) (HMV)



さて、この全集、2つの点で大きな意義があります。

1.上述のとおり、通奏低音のみの伴奏のカンタータも全て含むこと
2.異なるピッチの共存による演奏であること、
また、第4集まではローマピッチ(392Hz)ですが、
今後は作曲場所、初演場所などを考慮してピッチも配慮するとのこと

1はとりあえずそれ以上付け加えることはないのですが、
通奏低音のみのカンタータの録音はあまりにも少なく、
イコール「あまりおもしろくない」と変な先入観がありました。
しかし、とんでもないことです。
第1集には通奏低音のみの伴奏のカンタータが
3曲入っていますが、とても魅力的な作品です。

そして重要なのは2の方なのですが、
当時ローマでのピッチは、上述のとおり
392Hzと、ヴェルサイユなみに低いピッチでした。
そしてややこしい事情もあります。
当時ローマの教会は管楽器を禁じていたため、
ローマ独自の管楽器奏者・製作者はいなかったそうなのです。
貴族が自分たちの楽しみのための
セレナータやカンタータなどで管楽器入りの作品を演奏するとき、
ヴェネツィア出身の奏者を雇っていたそうなのですが、
ヴェネツィアのピッチは皆さんご存知のとおり
通常のピッチより高い440 Hzでした。

つまり、管楽器が入るローマの作品においては、
バッハの教会カンタータにおける
コアトーンとカンマートーンの共存のような問題が発生していたわけです。
驚くべきことに、この問題は今まで提起されたことはなかったのです。
このあたりがバッハ研究とヘンデル研究の人数の差なのでしょうかね…。

というわけで、この第1集においては、弦楽器および歌手はローマピッチ、
管楽器はヴェネツィアピッチで演奏されています。
具体的に言うと1音の差があることになります。

さて、これがどのように影響してくるかが問題です。
でないと単なる学者の自己満足です。
この共存を当てはめた演奏は
第1集では「Da quel giorno fatale (Delirio Amoroso)」にて聴けます。
まず、Introduzioneでさっそく影響が出ます。
現代譜においては嬰へ音のロングトーンがオーボエにあるのですが、
容易に想像がつくとおり、バロックオーボエでは
この音は朗々となる音ではありません。
しかし、上述のようなピッチ共存で演奏すると
なんのことはないホ音のロングトーンになります。

ヘンデルはイギリスでオペラを書くときには、
キャストの得意な音域を把握し、
特に輝かしく歌える音を主音または属音にしたアリアを
見せ場に持ってくるよう配慮する、
極めて演奏効果には慎重な人でした。
とすると、このピッチ共存は極めて歴史的に忠実であるだけでなく、
説得力があります。

Brilliant Classics という廉価レーベル故、
忌避している方も大勢いらっしゃるかと思いますが、
演奏はとてもしっかりしています。
将来的にはBOXになるのでしょうが、
1枚1枚追っていく価値のある全集だと思います。

あと付け加えますと、Brilliant Classics は困ったことに
しばしば歌詞は原語のみ記載という
私のような語学音痴泣かせなことをするのですが、
この全集にはしっかり伊英対訳が付いています。
その点でもご安心ください。

2012年6月16日土曜日

楽器に「進化」はありえるのか?

このブログを立ち上げて何か月か経ちます。
いくつか記事をお読みくださった方なら気づかれていると思いますが、
私はピリオド楽器系の演奏が好きです。
でも現代音楽も好きなのですね、不思議に思われるかもしれませんが。
古楽と現代音楽というのは相当に親和性が高いというのが持論ですが、
今回はそれが主眼ではないので、
またいつかそれについては書きたいと思います。

さて、楽器です。
楽器に「進化」というものがあるのか、と問われれば、
私は完全に否定します。
「変化」があるのは当然としても、それが良い方向に
変化しているとばかりは言えないと思うのです。

古琴や筝の話をしましたが、絹糸を使用しなくなったのは、
まあ率直に言って現代はうるさすぎるからだと思うのです。
音色を犠牲にしても音量を強化せざるを得なかった。
これは完全に二者択一であって、音量強化がなされたからといって
「改良」と言えないのは音色の犠牲があまりに大きいからです。

これは西洋でも同じだと思います。
たとえばクラヴィコード。これは古琴と非常に近い。
演奏者自身か、楽器のすぐそばの人間にしか音は聞こえません。
ですが、繊細な音色と、音色変化が可能です。
よくクラヴィコードの特色としてヴィブラート(ベーブング)がかけられることを
挙げられますが、あくまでベーブングの本質は
音色変化奏法の応用の一つであって、
モダン楽器的なヴィブラートがかけられるから優れている、というのは
まったくの的外れということは忘れてはならないでしょう。

クラヴィコードやチェンバロとピアノはですから全く別の楽器であり、
チェンバロがピアノの先祖であるかのようなことを言う方もいますが、
これもまったく事実とは異なります。
現代では発音方法が両者でまったく異なることは
よく知られてきていますからこれは改善されてきていますが。

問題は様々な年代のフォルテピアノ 、これとモダンピアノの関係です。
結論から言いますと、これも別の楽器と考えた方がいいのです。
古琴や筝が絹糸を放棄したのと似ていると思います。
音色と音量の二者択一で、やむなくモダンピアノに変貌していったのでは。

リストは演奏会で、全く同じ状態のピアノを三台用意していたそうです。
リストの演奏に当時のピアノの張力では耐えられなく、
調律が狂ってしまうので、こういう準備をしていたそうです。

地歌の演奏会の様子をごらんになった方、ピンときたはずです。
現在のところ絹糸をまだ使用している三味線は、絃が切れやすいので、
替え三味線といって、三味線奏者の後ろに
絃が切れた時の替えの三味線を置くことがあります。
名人上手になってきますと、一番太い絃が切れた場合を除き、
ポジション移動だけで弾ききってしまうこともありますが…。
まあ、普通の発表会レベルですと替え三味線を用意するのが普通です。

リストの時代はまだ原始的なピアノしかなかったから、
これは仕方なかったのだろう、と言われるかもしれないですが、
どうでしょうね、これは簡単に結論は出せません。

ベートーヴェンのピアノ作品が、当時激変を繰り返していた
ピアノの変化を作品に組み入れていたように、
また、クレメンティ社製ピアノの販促の一環でもあった
クレメンティのピアノ作品も積極的に新しいピアノの奏法を
取り入れて宣伝も兼ねていたように、
この二人の活動時期ほどの激変はなかったとはいえ、
代わりにリストは長命でした。楽器の変化は当然作品に反映させました。
しかし、進化論では語れない問題もあるのです。

「超絶技巧練習曲集」には3つの稿があります。
このうち一番実際の演奏が困難なのはどれだと思われますか?
「楽器進化論」がそのまま適用できるなら、第3稿のはずですよね?
ですが、実際には第2稿なんですよ!

このことは、実は2つ稿のあるパガニーニ練習曲集にもあてはまります。
最初の稿の方がはるかにムチャクチャな技巧を要求されます。
リストはあえて技巧的には簡易化をして(それでも十分難しいですが)、
最終稿としたわけです。最新のピアノの技術を
盲信していなかったのではないでしょうか。

おそらく、リストならば、音量の問題は自身の力量で解決でき、
ならば音色に優れた楽器を、という選択をしたのかもしれません。

フルートをはじめ木管楽器も、金管楽器も、
ヴァイオリンをはじめ弦楽器も、
すべて「改良」は音量面と、半音階対応に関してです。
音色は常に犠牲にされてきました。
現代の演奏会場ではもはや音色を対価にして
音量が出るように、また複雑な半音階進行に対応するよう
「進化」させた楽器を使用するしかないのですが、
これは音楽を演奏する道具である、「楽器」の正しい「進化」の
結果なのかと問われると、冒頭のように私は否定的見解です。

2012年6月4日月曜日

S.クイケンは私よりよほどわが師に忠実だ

S.クイケン指揮のバッハ:ヨハネ受難曲の再録音を聴きました。




バッハ:ヨハネ受難曲 クイケン&ラ・プティット・バンド(2SACD)
(Amazon) (HMV)

旧録音との違いは、最近のクイケンの一連の録音と同じく、
OVPP(合唱部も1パート一人で歌う)によるものということです。

クイケンはこれまでバッハの宗教作品をOVPPで録音し、また継続中です。
Challenge Classics にはこれまでに



モテット集 (Amazon) (HMV)



ロ短調ミサ (Amazon) (HMV)



マタイ受難曲 (Amazon) (HMV)


と、録音しており、また、Accent にはカンタータを同じくOVPPで
全20枚予定で録音継続中です。

正直、リフキンなどのOVPPの演奏を聴いたときには、
「なるほど、こういう学説もあるのだな」という
学説の実証くらいにしか思えなかったのですが、
クイケンとLPB(ラ・プティット・バンド)の最近の一連の録音は、
しっかりと演奏するヴィジョンがあって、その手段として
OVPPを用いていることがはっきりわかります。
学究的というよりは、すばらしい音楽ということがまずあるわけです。

唐突ですが、わたしの尺八の師匠には、よく同じ注意をされます。
「大きな音を出すことは大事だが、コントラストが出せないようでは無意味」と。
弱音があってこそ強い音も活きるし、逆もまたしかりなのです。
このことをクイケンとLPBのOVPP演奏を聴くと思い起こすのです。

特に、ヨハネ受難曲は合唱の担う役割が大きく、
果たして満足感が得られるのか、実際に聴いてみるまで
少し心配な部分もありました。
それは杞憂でした。
静かな祈りと劇的高揚が十分に表現されています。
少人数ゆえの精度の高さもあります。
なぜこんなことが可能なのでしょうか?

その答えは、先ほどのわたしの尺八の師匠の言葉にあるわけです。
もともと、バロック音楽はコントラストの音楽で、
漸強、漸弱といった要素はないわけです。
あるとしても長く伸ばす音のメッサ・ディ・ヴォーチェくらいでしょう。
このコンビのOVPPによるバッハ演奏は、基本が静謐な祈りなのです。
ですから、声を張り上げて絶叫しなくても
相対的に強音が対比されるわけなんですね。

なんということでしょう。
私の尺八の師匠の注意をよく守っているのは、
クイケンのほうではありませんか。
合唱の役割の大きいヨハネ受難曲を聴いて、
師匠の言葉の意味がわかった気がします。
絶叫は必要ないのです。
必要なのはむしろ静謐な祈りを純度を高く表現することなのです。

2012年5月22日火曜日

東洋の「音」

ここしばらく落ち着いて音楽が聴けないのが少しストレスです。
オペラを聴きたいのですが、演奏時間が長いですからね。

こういう時は邦楽演奏で養った「東洋の耳」が役に立ちます。
古琴の音を松風に喩えることは以前書いたとおりなのですが、
他にも有名なのは、尺八の理想の音が「竹林を渡る風の音」というのもあります。
古典文学でも自然界の音に対し非常に繊細な受け取り方が多々見受けられ、
「音」に対しての感受性は東洋はとても高いことがわかります。

ジョン・ケージの「4分33秒」は冗談音楽のように受け止められていますが、
ケージがかなり東洋音楽思想に影響を受けていたことを考えると、
そうした見方はかなり西洋音楽の概念でしか考えられなくなっている
証拠ではないかと思います。
静寂の中に耳を澄ませば、そこには豊かな音楽が存在する、
それは全く東洋的な音楽の考え方です。
ただ、それが「ピアノ作品」ということなので誤解が生まれるのでしょう。

ケージの主張した「偶然性の音楽」という言葉は、だからちょっと違うかなと。
音楽はすでに存在するものであって、
あとはそれを聴きとることができればいい。
そういう意味ではやはりケージも
西洋音楽の人だったということができるでしょう。

そしてさらに、ケージの「偶然性の音楽」でさえもあまりにも無責任とされ、
ヨーロッパでは「管理された偶然性」なる音楽が生まれます。
もうここまでくると東洋の面影はゼロですね。

さて、古琴ではポジション移動の際の「擦音」も含めて音楽です。
ただ、それはあまりに音量が小さく、奏者、せいぜい奏者のごく近くの人しか
聞こえません。ただそれでよかったのです。
古琴は自分で弾くための楽器で、聴かせるものではありませんから。
ここが現代スチール弦に変わった大きな原因でしょう。
西洋と同じく、「聴かせる」音楽として生き残るには
これしか手段はないわけです。

同じことは十三絃筝にも言えます。
本来絹糸を使うのですが(藝大では現在でも絹糸です)、
せいぜいお座敷くらいの大きさしか想定していないそれでは
小ホールといえども音が聞こえない。
右手の基本奏法はともかく、左手の繊細な音色変化は無理です。
そこで古琴のように、テトロン弦が使われるようになったのでしょう。

三味線はかろうじて絹糸が使われています。
これも将来どうなるかわかりませんね。

思うのですが、明治以降の邦楽器作品は西洋音楽的「楽音」が主で、
せいぜい物珍しさを披露する陳腐なエキゾチシズムの表現として
本来の繊細な音色変化を使う程度です。
これも、お座敷から、演奏会用ホールへと場所が移った弊害です。
こういう音楽をするなら邦楽器を使う必要がありますか?
楽器だけ邦楽器でも、「音」の考え方がまったくの西洋音楽なのです。
だから私は明治以降の邦楽器作品は西洋音楽と考えています。

今、雨が降っています。
その雨音を聴くか、その雨音の合間の静寂を聴くか、
これが分かれ目だと思います。

2012年5月14日月曜日

フォーゲルのブクステフーデ:オルガン作品全集

ブクステフーデのオルガン作品には決定盤がなかなかない、
という声をときどき耳にしますが、私はこれが文句なしの
決定盤だと思うものがあります。
ハラルド・フォーゲルによる全集です。

ブクステフーデ:オルガン作品全集: ハラルド・フォーゲル(Org.)

(Amazon) (HMV)


かつて非常にゆったりとすすめられた全集のBOX化。

フォーゲルは、録音は非常に遅いですが、演奏は
いつも非常によいのです。この全集の完成が
遅れに遅れた理由を、最後の第7集で、
ハンブルクの聖ヤコビ教会のシュニットガーオルガン
の修復完了を待っていたからだと述べていました。

全集を通じて、各地の歴史的オルガンを
使い分けているのも聴き所。
いくつかの作品では元調と移調で2回収録されていますが、
これはミーントーンのオルガンでは移調して演奏しているためです。

個々の作品の演奏を詳しく述べることはできませんが、
一例としてト短調のPraeludium(BuxWV148)を挙げてみます。
3曲あるト短調のPraeludiumのなかでもとりわけ
壮麗な作品ですが、フォーゲルの各部分の性格付けが
とりわけ見事な例でもあります。
propositioでの見事なStylus phantasticus の
飛翔感、続く最初のconfutatio での特徴的な同一音反復の
美しい均整の取れたリズム、そしてなにより、
conclusio での荘厳なオスティナート。
この2拍子によるシャコンヌはとりわけ低音が
魅力的な音色で、聖ヤコビ教会のシュニットガーオルガンの
修復を待っていた、というのは
あながち言い訳でもないな、と当時思ったものです。

この曲以外でも、総じてフォーゲルのストップ選択は
コロコロ変化をさせたりするものではなく、
歴史的奏法にそったもので、なおかつ、
その選択自体が聴きものといってよいと思います。
ストップ選択の趣味のよさはフォーゲルの
美点のひとつだと思うのです。
同じくブクステフーデの全集を出したフォクルールは、
ストップ選択に関しての助言をフォーゲルから得たことを、
ブックレットでスペシャルサンクス的に明記していたくらいです。


2007年はブクステフーデ没後300年ということで
さまざまなディスクが出たり企画されましたが、
こうした名盤がBOX化されたというのも、
こうした記念イヤーの恩恵でしょう。
多角的にブクステフーデのオルガン作品を
堪能できるBOXで、他の演奏を持っていても
買って後悔しないと思います。

2012年5月10日木曜日

古琴と松風

先日、「梁塵秘抄」を読んでいまして、このような歌が載っていました。

「月影ゆかしくは、南面(みなみおもて)に池を掘れ、さてぞ見る、
琴のことの音(ね)ききたくば、北の岡に松を植えよ。」(巻第二 三七九)

ちょっと説明が必要だと思われますので簡単に。
まず前半、当時月は直接観るものではありませんでした。
池や杯に映る月を間接的に鑑賞するのがつねでした。
庶民階級はわかりませんが、すくなくとも貴族はそうでした。

そうした当時の月見の仕方の前段を受けて後段があるわけです。
琴の音も同じく間接的に聴こう、と。

さて、なぜ松なのかとか、「琴」についても説明が必要です。
まず、「琴のこと」と歌われていますね、当時「こと」というのは
弦楽器の総称でした。枕草子や平家物語では
「琵琶のこと」 という記述もありまして、
琵琶も弦楽器ですから当然 「こと」だったわけです。
このように「○○のこと」で弦楽器を指す習わしでした。

では「琴のこと」とはどんな楽器かというと、現代の私たちの
よく知っている十三絃の筝ではありません。
当時雅楽では三種類の「こと」がつかわれていました。

まず六絃の「和琴」。これは国風歌舞に使われるもので、
つまりもともと日本にあった「こと」です。
そして雅楽管弦に使われる十三絃の「筝のこと」。
これがのちに筝曲でつかわれる俗筝になります。

さて、もうひとつが「琴のこと」です。
これは七絃の楽器で、古くから文人のたしなみとして
独奏楽器として発達してきました。
そしてこれは現代では「古琴」あるいは筝との混乱をさけるため
「七絃琴」ともいわれます。ここではこれから「古琴」と呼びますね。

「古琴」の音はしばしば「松風」に喩えられてきました。
つまり冒頭の梁塵秘抄の歌の意味がこれで
ようやく明らかになったと思います。

「月を見たいと思えば池に映る月を眺めるために南に池を掘れ、それを眺めよう、
古琴の音を聴きたければ北の岡に松を植えて松風の音を楽しもう。」

こういうことなのです。なんとも風流ですね。

ところが、現代においては筝の演奏家でさえ「筝」「琴」の字を
区別する人が少なくなったことで明らかですが、古琴は絶滅寸前です。

そして、中国では古琴奏者は比較的多いとはいえ、
現代では絹糸ではなくスチール絃を使うため、
上記の歌のような、古来喩えられた「松風」を感じることは不可能です。

洋楽でも現代、駒を高くし、スチール弦を張力目いっぱいに強くした
モダン弦楽器で古典を弾いても、例えばモーツァルトがある曲で
G♭とF♯でさんざん悩んだその苦悩の選択の結果は表現不可能ですよね。
それと同じことなんです。

ただし、さすがに文人の楽器、
絹糸を使った人もいるわけです。
劉少椿師はその一人です。

張子謙師と劉少椿師は現代廣陵琴派の代表的演奏家ということで、
知人に音盤をお借りしてこのお二人を聴いたのですが、
劉少椿師の演奏は衝撃的でした。

張子謙師は、近代的な演奏スタイル、いわばプロとして
現代の音響を追及している感じでした。
音楽家としての音楽の演奏として非常に洗練されています。
その最先端が姚公白師なのだと思います。

劉少椿師は、いい意味でディレッタンティズムを貫いておられるようですね。
文人の音楽としての古琴という感じがいたします。

解説を読んでみたのですが、
張子謙師は長い余韻での「吟」や「Nao(けものへんに柔)」を
「進復」や「退復」に改変したそうです。
これはおそらく、スチール絃の使用と無関係ではないのでしょう。
劉少椿師は「右手は正確に動かし、左手は「吟」や
「Nao(けものへんに柔)」を完璧に」と初心者に指導したそうです。
古い録音の中にも、また、完璧な状態の演奏ではないという
注意書きもありますが、
それでも十分に師の演奏の美点は伝わってきます。
「無声勝有声」、「静寂は音に勝る」、
ある意味、古典邦楽と感性を共有しているわけですね。

残念ながら日本では現在劉少椿師の音盤は入手できないようですが、
Youtubeなどでもし見つけられましたら、ぜひご一聴ください。

それまでは、冒頭の歌のごとく、松風を聴いて過ごすことにしましょう。

2012年5月5日土曜日

ヤナーチェクのピアノによるヤナーチェク

私はヤナーチェクが大好きです。
とりわけ、オペラは大好きで、ただ現段階では
言葉としてまとめるほどにはなっていません。
そこで興味深いピアノ作品録音を紹介してみます。

ピアノ作品集 イラスキー(ヤナーチェク博物館所蔵エアバー・ピアノ)(HMV)

これは 1枚で77分収録。収録されているのは、

・霧の中で
・ピアノ・ソナタ『1905年10月1日』
・草陰の小径にて(全15曲)
・ズデンカ変奏曲
・思い出

 「草陰の小径にて」が15曲なのは、いわゆる「第2集」を
ふくめているからですが、この問題ある5曲に関しては
ライナーノートできちんと述べられています。
この曲集はたしかに続編を意図されていましたが、
「Piu mosso」と「Allegro」の2曲ははずされたもの、そして
「Vivo」は未完成です。つまりヤナーチェクの最初の意図どおりなのは
「Andante」「Allegretto」 の2曲のみです。
ただし、作品としては興味深いことに変わりはなく、まず第2集として
 「Andante」「Allegretto」を演奏したのち「Piu mosso」と「Allegro」、
そして最後に未完の 「Vivo」をもってくる、というかたちにしています。

全集ではないもので、「ズデンカ変奏曲」と「思い出」 を収録してあるのも
いいですね、厳密に言えば違いますが、この実質的に最初と最後の
ピアノ作品は録音に恵まれていませんから。

さて、このCDの興味深い点は上記のとおり、ヤナーチェク自身が使用した
1876年製エアバー・ピアノを使用したピリオド楽器演奏という点です。

「霧の中で」第4曲で頻繁に現れる下降する速いパッセージの効果などは、
やはりモダンピアノではちょっと味わえないものですね、ハッとします。

 ソナタも、特に「予感」ではなんとも言えないニュアンスが出ています。

 「草陰の小径にて」第1集はまちがいなく白眉。
亡き娘との関わりを指摘される終曲は特に胸に迫りました。

ヤナーチェクの作品はあまりにも独特なので、
こうしたオーセンティシティなどの問題は度外視されがちですが、
やはり意義はたしかにあるのだと感じました。
室内楽作品などもピリオド楽器で聴いてみたいと思いました。

2012年5月1日火曜日

メンデルスゾーンのオルガン作品



メンデルスゾーンのオルガン作品全集はイニッヒのもの(Amazon)(HMV)

持っているのですが、
響きが「モダン」過ぎじゃないかな?という違和感がどうしてもぬぐえなくて、
安いことだし、これを購入してみました。
メンデルスゾーン:オルガン作品全集:ブライヒャー(Org.)(Amazon)(HMV)



我々が想像するロマンティック・オルガン、
たとえばラーデガスト・オルガンであったり、
カヴァイエ=コル・オルガンであったりは、
やはりリストの「『アド・ノス・アド・サルタレム・ウンダム』による幻想曲とフーガ」とか、
フランクの「交響的大作」などの作品以降に最適化されていると思うのです。
前者が1850年、後者が1862年の作曲であることを考えると、とても象徴的に思えます。
メンデルスゾーンの死後ですものね。
フランスのロマン派オルガン音楽とカヴァイエ=コル・オルガンの
結びつきは有名でご存知の方も多いと思います。
ヴィドールを中心に一度以前にフランスのロマン派オルガン音楽について
書いたことがあります。

ストップ変更が容易になるのも、上記のようなロマンティック・オルガンの
変化(もちろん作品の要求もあったでしょうし、相互作用でしょうが)があってこそですので、
バロック時代は無論のこと、メンデルスゾーン時代にもそうそうコロコロとストップ変更は
出来なかったわけで、ブライヒャーの全集で用いられているモーザー・オルガンでの演奏は
なにかモヤモヤしていた気持ちを晴らしてくれたところはあります。
まあ、欲をいえば、ブライヒャーの演奏がもっと冴えてくれていればいいんですけれど。

バロック様式のオルガンや、ロマンティック・オルガンは結構ありますけれど、
メンデルスゾーンに代表されるような中間期のオルガンって、意外に少ないのでしょうか?

しかし、こうしたメンデルスゾーンの作品が個性に乏しいという評はどうも納得できないですね。
たとえば、以前書きましたが後のラインベルガーのオルガン・ソナタは、
実際上、「前奏曲とフーガ」+αという構造なんですよ。
表面的にはモダンに見えて、実は基本構造はかなり保守的です。
それに比しても、メンデルスゾーンのオルガン・ソナタの多様性は
明らかであって、まあHMVなどのレビューはこの演奏が前提だからかもしれませんね。
ソナタ第3番とかもっとワクワクする曲なんですけどね…。

というわけで、もうひとつ、メンデルスゾーン時代に適したオルガンでの
全集を購入してみました。
メンデルスゾーン:オルガン作品全集:ロバン(Org.) (Amazon)(HMV)


これが当たりでした!上述の第3ソナタなども浮き立つような演奏。
全般にブライヒャーの全集よりいきいきとしています。
ただ、曲数は少な目。
ということで、ここで紹介した3つの全集で、皆さんの
目的(曲を余さず聴きたいか、最適な楽器で聴きたいか) にあわせて
ロマン派オルガン音楽のエアポケットを探究してみてはいかがでしょうか。

2012年4月23日月曜日

苦悩は愉悦に勝るのか?:ロッシーニを正当に評価しよう

どうも日本のクラシックファンは独墺系の交響曲ばかり聴く方が多いですね。
苦虫を噛み潰したような表情でドイツ語圏の作曲家の生真面目な作品を
苦悩を共有しながら聴くという一種修行のような聴き方が
いかにも「自分は高級な人間だ」という気持ちにさせてくれるからでしょうか。

さて、何度か書いてきましたが、最近ロッシーニの天才に圧倒されています。
しかし彼の才能というのは、上述のような高踏的なものにしか価値を
見いだせない方には、一生縁がないものでしょう。

ロッシーニは、いまだにブッファの作曲家と思われていますし、
実際彼の生み出す愉悦は筆舌に尽くしがたいレベルに達しています。
無論、私が主に圧倒されているのはその点なのですが、
それだけでは誤解を助長しかねないので、セリア作曲家としての
ロッシーニにまず触れておきます。

彼の時代はちょうどセリアの転換点のひとつでもありました。
基本的にセリアは王侯貴族とのかかわりが伝統的に強く、
どんな悲劇でもハッピーエンドがお約束でした。
ロッシーニの少し前の世代から、次第に悲劇的エンドが出てきます。
そして、それを本格的に取り入れ、一般化したのはロッシーニだといえます。

ただ、現代では考えがたいことですが、当時としてはそれは
あまりにも生々しく、衝撃的に過ぎるという面もあったようで、
ロッシーニの多くのセリアには、悲劇的エンディングとともに、
ハッピーエンドの別バージョンが存在します。
「タンクレディ」などはオリジナル悲劇的エンディングが発見されたのは
比較的最近のことです。
また、CDのように融通の利くものは別として、実際の上演では
どちらかのバージョンを選ばなければなりません。
どちらもロッシーニとはいえ、やはり悲劇的エンディングのものは
一般的イメージのロッシーニとはかなりちがいます。
ゾッとするような効果をもたらします。

ここで両方のエンディングを収めたCDをいくつか紹介しておきます。
ぜひ皆さんのご自分の耳で味わってください。

 「タンクレディ」



(Amazon)
言わずと知れた初期のセリアの名作です。
これはリブレット付きですが廃盤ですので値が張ります。
しかし、それだけの資料価値は十分あります。

ちなみに、ピリオド楽器演奏で両方のバージョンを収録したものもあります。



(Amazon)
こちらも廃盤ですが、私は運よくアウトレットで入手できました。
こうした廃盤ものもタイミングが合えば安く入荷できるチャンスがありますので、
今は高くとも、チェックしておいてみてください。

「オテロ」



(Amazon)
この「OPERA RARA」というレーベルは非常にすばらしいです。
このオテロに限らず、別バージョンを可能な限り収録したり、
それ以前にまずほかでは録音がないような作品をリリースする、
オペラ専門レーベルです。
しかも、ブックレットがこれまたすさまじい詳細さと美麗さで、
少々高めですが、必ず満足できます。
この「オテロ」はシェイクスピアが原作とは考えない方がいいです。
その前提を忘れなければ楽しめます。
悲劇的エンディングはかなり衝撃です。
当時ならいかばかりだったか、と思います。

一つの商品で両バージョンを収録しているのは
私の所有しているものではこれくらいかなと思います。
あとはですから、悲劇的エンディングの演奏と
ハッピーエンドの演奏を少なくとも両方揃える必要があるわけです。

さて、ロッシーニが悲劇的表現にも長けていたということの
証明の後で矛盾するようですが、やはりロッシーニは愉悦の人です。
ドイツ的苦虫はいくらでもいます。
でも、ロッシーニのように、有無を言わせぬ愉悦で
全身を満たしてくれる作品を書く作曲家は、本当に稀です。
私はそこにこそロッシーニの天才を感じずにはいられないのです。

「セヴィリアの理髪師」のようなもうすでに有名な作品は今更ですので、
この2作品をぜひ紹介したいです。これらにしても
ロッシーニ好きにとっては今更なのですが…。

「マティルダ・ディ・シャブラン」




(Amazon)(HMV)
まず脅してみましょう(笑)。第1幕だけで2時間かかります。
はたして冗長な作品でしょうか?
2流歌手ならその欠点が出るかもしれませんが、
上記のリンクの音盤は、フローレス歌うコッラディーノが
とりわけすばらしい!。こんな難役を歌いこなすのは
現代では彼くらいでは?
そう、こういう歌手に恵まれたとき
この作品は筆舌に尽くしがたい愉悦の3時間をもたらしてくれます。
ロッシーニ演奏の問題のひとつではあります。
優秀な歌手、それもヴェルディやワーグナーなどと根本的に違う
技巧が必要なのです。
ロッシーニの作品需要が高まったおかげで、こうした
ロッシーニ歌手が増えてきて、好循環をしてきています。
これはマイアベーアの話を書いたときにも少しふれました。


「オリー伯爵」



(Amazon)(HMV)
この作品は間違いなく傑作なのですが、
この作品ほど誤解にさらされた作品もないでしょう。
音楽の大半は大カンタータ「ランスへの旅」の再利用というところです。

・「ランスへの旅」

(Amazon)(HMV)
こちらは復活演奏のもの。アバドの旧録音。
安いのにリブレットがついている点でオススメかもしれません。

(Amazon)(HMV)
もっと安いアバド新録音。ベルリンフィルという点がウリでしょうか。
安いので両方持っていてもいいと思います。

ところでこの「ランスへの旅」、フランス王の戴冠式のための
機会音楽です。
そしてここも独墺系苦虫がお好きな人が良く勘違いする点ですが、
当時は機会音楽の方に作曲家は全力を尽くしました。
たとえば、ザルツブルク時代のモーツァルト、
交響曲とセレナード、どちらが名作が多いでしょう?
偏見と先入観さえなければ圧倒的に後者であるとわかります。
これはもちろん理由があります。
機会音楽が必要とされるような機会には、使われる楽器の種類も数も、
そして集められる楽員の力量も特別なのです。
モチベーションも高まりますし、自分の力量を正当に評価してもらうには
絶好の機会でもあったわけです。

というわけで、ロッシーニの「ランスへの旅」も最上の音楽です。
ところが機会音楽といううのは、それ一回きりの音楽でもあるわけです。
紛失したりすることはめずらしいことではなく、
実際「ランスへの旅」もロッシーニは保存する気はなく、
復元はロッシーニルネサンスの最大の成果ともいえます。

ただ、モーツァルトがセレナードを交響曲に編曲しているように、
自分のベストの音楽は別の文脈で生き残らせたいというのも当然です。
そこでロッシーニは「オリー伯爵」という傑作オペラとして
その名残を残そうとしたわけです。

不思議なのですが、バッハは世俗カンタータ(機会音楽です)を
いくつも教会カンタータやオラトリオに音楽を別の文脈で
生き残らせていますが、19世紀の学者は「聖化」と称してむしろ礼賛しました。
それが、ロッシーニの場合、
なぜか怠惰の象徴のようにいわれることがあります。
これが全くの的外れであることは、「ランスへの旅」と「オリー伯爵」の
両方をきちんと聴けばわかることです。
とにかく音楽は極上です。
ぜひお確かめください。

このような愉悦に満ちた音楽は、本当に
苦悩に満ちた音楽に劣るのでしょうか?

2012年4月18日水曜日

アンナによるアンナ:ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」

最近は主にロッシーニやドニゼッティによるオペラを
中心に聴いているのですが、これは映像で観ました。
ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」のウィーン国立歌劇場の新プロダクションです。


(Amazon)(HMV)
これが本当に素晴らしいのですよ!
偶然にもヒロインと同じ名前のアンナ・ネトレプコ
によるアンナ、ガランチャによるジョバンナはもちろん、
なによりダルカンジェロによるエンリコが貫録というかわかりやすい
悪人ヅラといいますか(失礼!)、なにしろ歌の実力はもちろん、
視覚的にも非常にわかりやすくてよいです。
日本語字幕はないですが、よく知られた物語ですから
なんとかついていけると思います。
どうしても日本語訳が欲しい方はこういう本もあります。
おぺら読本対訳シリーズ(40)アンナボレーナ/ガエターノドニ


私は現代的演出もいいとは思いますが、
すくなくともこのアンナのような作品の場合、こうした
保守的衣装と時代設定は必要不可欠であると思うのです。

アンナ・ボレーナ、すなわち英国国王ヘンリー8世の2番目の妻、
アン・ブーリンがこの作品のヒロインなのですが、
こうしたヒロインは、悲運に襲われても、毅然として
王妃と しての尊厳を忘れない強さがあり、
そこが歴史ものとしての背景の必然性だと思います。
女性に限らず、こうした強さを持った人物が現代において
はたして説得力をもって提示できるかというと、非常に難しいと思います。
高貴な立場という自覚が俄然説得力をもたせると思うわけです。
ですから、この作品や、「女王三部作」といわれる他の2作品、
「マリア・ステュアルダ」、「ロベルト・デヴリュー」にも
同じことが言えると思います。

そしてピドの指揮もオペラ指揮者として非常にツボを心得ていて、
聴いていて非常にここちよくドラマに入り込むことができました。
ウィーン国立歌劇場管弦楽団と合唱団がすばらしいのも言わずもがなです。

「アンナ・ボレーナ」は、 シルズ、グルベローヴァ、テオドッシウと
聴いてきましたが、なにしろ共演者にも恵まれなければなかなか難しいです。
カラスはちょっと苦手なので聴いていません。伝説ではありますが。

ぜひネトレプコには「マリア・ステュアルダ」、「ロベルト・デヴリュー」、
そしてグルベローヴァの「ルクレツィア・ボルジア」が、
ややキャリアの最盛期を過ぎてしまったかな、という感が否めないのが
非常に悔やまれるだけに、できれば傑作「ルクレツィア・ボルジア」の映像もお願いしたいところです。
もちろん「マリア・ステュアルダ」にはガランチャもぜひ再び共演して、
女の、女王の戦いを見せてほしいと思います。