ここしばらく落ち着いて音楽が聴けないのが少しストレスです。
オペラを聴きたいのですが、演奏時間が長いですからね。
こういう時は邦楽演奏で養った「東洋の耳」が役に立ちます。
古琴の音を松風に喩えることは以前書いたとおりなのですが、
他にも有名なのは、尺八の理想の音が「竹林を渡る風の音」というのもあります。
古典文学でも自然界の音に対し非常に繊細な受け取り方が多々見受けられ、
「音」に対しての感受性は東洋はとても高いことがわかります。
ジョン・ケージの「4分33秒」は冗談音楽のように受け止められていますが、
ケージがかなり東洋音楽思想に影響を受けていたことを考えると、
そうした見方はかなり西洋音楽の概念でしか考えられなくなっている
証拠ではないかと思います。
静寂の中に耳を澄ませば、そこには豊かな音楽が存在する、
それは全く東洋的な音楽の考え方です。
ただ、それが「ピアノ作品」ということなので誤解が生まれるのでしょう。
ケージの主張した「偶然性の音楽」という言葉は、だからちょっと違うかなと。
音楽はすでに存在するものであって、
あとはそれを聴きとることができればいい。
そういう意味ではやはりケージも
西洋音楽の人だったということができるでしょう。
そしてさらに、ケージの「偶然性の音楽」でさえもあまりにも無責任とされ、
ヨーロッパでは「管理された偶然性」なる音楽が生まれます。
もうここまでくると東洋の面影はゼロですね。
さて、古琴ではポジション移動の際の「擦音」も含めて音楽です。
ただ、それはあまりに音量が小さく、奏者、せいぜい奏者のごく近くの人しか
聞こえません。ただそれでよかったのです。
古琴は自分で弾くための楽器で、聴かせるものではありませんから。
ここが現代スチール弦に変わった大きな原因でしょう。
西洋と同じく、「聴かせる」音楽として生き残るには
これしか手段はないわけです。
同じことは十三絃筝にも言えます。
本来絹糸を使うのですが(藝大では現在でも絹糸です)、
せいぜいお座敷くらいの大きさしか想定していないそれでは
小ホールといえども音が聞こえない。
右手の基本奏法はともかく、左手の繊細な音色変化は無理です。
そこで古琴のように、テトロン弦が使われるようになったのでしょう。
三味線はかろうじて絹糸が使われています。
これも将来どうなるかわかりませんね。
思うのですが、明治以降の邦楽器作品は西洋音楽的「楽音」が主で、
せいぜい物珍しさを披露する陳腐なエキゾチシズムの表現として
本来の繊細な音色変化を使う程度です。
これも、お座敷から、演奏会用ホールへと場所が移った弊害です。
こういう音楽をするなら邦楽器を使う必要がありますか?
楽器だけ邦楽器でも、「音」の考え方がまったくの西洋音楽なのです。
だから私は明治以降の邦楽器作品は西洋音楽と考えています。
今、雨が降っています。
その雨音を聴くか、その雨音の合間の静寂を聴くか、
これが分かれ目だと思います。
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