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2019年1月27日日曜日

細川俊夫氏のオペラ「海、静かな海」

 買ってあったDVDを鑑賞。



 (Amazon) (HMV)

細川氏の「リアの物語」をNHKで観た時は本当に衝撃で、それから出ている音盤はことごとく蒐集していますが、最近の氏の変化に関していろいろと考えるところがあります。

音楽において後進国であるドイツが、自分の有利になるように、あたかもバッハ以前の音楽が原始的であったかのような(しかも、長い歴史上でピンポイントで短期間優位だった特定ジャンルがあたかも西洋音楽本流であるかのような)イメージ戦略に成功した結果、ドイツ教養主義の影響がいまだに残っている日本の一部の音楽愛好家には、その呪いの効果が持続しています。

それはともかく、バロック時代、きちんと後進国である自覚のあった彼らは、色々模索していました。結果的に有効と考えたのはルター派のコラールだったのは間違いないでしょう。
スウェーリンクが一応宗教作品を主題にした変奏曲に先鞭をつけたとはいえ、大きく発展させ、多様化させたのは間違いなくシャイデマンであり、スウェーリンクの偽作の多くが実はシャイデマンが作者だったことなども含め、現在では名実ともにシャイデマンが北ドイツオルガン楽派の祖とされていますし、あるいはその関連として、ドイツ独自のカンタータも発展したわけです。
もちろん、プロテスタントであったことが重要な原因です。会衆が礼拝に参加する。そして歌う。
それなくしては、オルガン作品も宗教作品も成り立たなかった。ドイツはドイツの独自性をそこに見出し、それを基盤に各国の音楽を吸収したわけです。

日本はどうか。私が西洋音楽で好むのは、なぜスラブ語圏や東欧や北欧だったりすることが多いのかといいますと、別にひねくれているわけではなく、邦楽に関わっている人間として、民族音楽との関わりを一応真剣に考えているのです。そうした場合、グリーグ以降の「辺境」の音楽は非常に刺激される部分が多いのです。そうした観点がないと単に変人に見えるのでしょうけれども違うのですよ(汗)。 グリーグの前衛的な試みは国民楽派から二十世紀の周辺地域の作曲家に多大な影響を及ぼし、それは細川氏とて例外では無いとさえいえます。グリーグに関しては後日項目を改めます。

で、細川氏。彼の80年代の音楽はラッヘンマンの影響も強かったですが、結果的には上手く作用していたところもあるかもしれません(あくまで邦楽関係者視点)。
断章Ⅰは、三曲合奏でありながら、伝統と隔絶されていて、最初は、まあ洋楽の作曲家ならこんなものか、と思っていましたが、それからしばらく、彼は確かに日本文化を意識していましたし、それが安直な転写でないところはいいのかもしれない、と考えたとき、断章Ⅰへの考え方は変化しました。


細川氏は「意図的な誤読」という表現を遣っていますが、創作者として、とくに西洋音楽の作曲者であることを考えた場合、とても適切な姿勢だと思いました。そして、件の「リアの物語」はある意味、ゴールともいえたのかもしれません。完璧といってよかったと思います(あくまで邦楽関係者視点)。


だからこそ、彼の音楽は変わり始めたのかもしれません。当面の目標を達成してしまったのですから。
ただ、どうも彼が最近やっていることは、グリーグから国民楽派への先祖がえりに思えます(しつこいようですが、あくまで邦楽関係者視点)。音楽的素材というより、音楽外の素材で国民的アイデンティティを表明しつつも、音楽的にはもう純粋に西洋化へと向かっているような。管弦楽法は非常に洗練されてきていますが、それは、あえていままでやらなかっただけなのかもしれません。

松平頼則氏が空前絶後なのはまさにそこなのでしょうね。
頼則氏の作品解説で音列と雅楽音階の関連の説明で、雅楽部分の説明が間違っていることが少なくないのですが、仕方ないですよ。西洋音楽と雅楽の双方に通じている専門家なんてどれほどいるのか。おそらく雅楽部分は参考文献を参照しているのでしょうけれども、実践しないとわかりにくい部分はどうしてもありますので。

細川氏に関する批判ではありません、断じて。彼は西洋音楽の作曲家なのであり、西洋音楽として高品質の作品を書いているなら邦楽関係者としての意見なんて聞く必要もないのです。
ただ、「リアの物語」を聴いてしまったので、とても惜しいという思いがどうしてもあるのです。身勝手なのは重々承知ですけれども。

どうしてこうなるのか、考えた場合、最初に書いた、同じく西洋音楽的には後進国であるドイツに思い至ったという訳です。つまり、コンプレックスでしょうか。

独自の芸術的価値のある伝統音楽があるといいながらも、それを普遍化するのは至難です。だからこそ私は、グリーグやヤナーチェク、バルトーク、シマノフスキには、純粋西洋音楽愛好家以上の評価をしているともいえます。松平頼則氏は確かに錬金術を考案しましたが、それは誰もが扱えるわけでもないのは、作品解説でさえ躓いてしまうところから明らかですし。

私がこういう観点なのは立場上仕方ないことなので、純粋な西洋音楽愛好家で細川氏のこのオペラを気に入っている方は、くだらねえ、と一蹴してください。

2013年12月11日水曜日

声楽作品鑑賞にはどの程度の語学力が必要なのか?

昔、スメタナのオペラを「ボヘミアのブランデンブルク人」以外の全作品を
集中して聴いたことがあって、いろいろ面白いところがあったので
話をしたら、「チェコ語は難解だからなあ」と返されたことがあります。

彼はオペラ(というより声楽作品全般)を原語で理解しようとする人で、
西欧主要国と、あとはせいぜいロシアで限界だ、と言っていました。
対訳に頼り切りの私にとってちょっとはっとさせられることでした。

私はせいぜい英語くらいしかわからないので英国作品で考えてみました。
パーセルの作品は古語ではありますが、きれいな言葉だなあ、とは感じます。
ただ、歌だとよく聞き取れないのでどちらにせよ歌詞は見ながら聴いているのですが。
それでも、直接的に脳に入ってくる感覚はたしかに対訳とは違うな、とは感じます。

その一方で、対訳を見なければわからないとはいえ、ロシアオペラ独特の
バスの魅力は言語を超えているような気がします。
あの独特のバス歌手がロシア語で歌うだけでなにか陶然としてしまいます。
まあ、そういう部分もあるからこそ、西洋ではマイナーなロシア語オペラも
結構人気だったりするのかもしれませんね。
ロシア語を直接理解できる人ばかりではないと思います。

いや、英語の前に私はネイティヴ日本語話者ではないですか。
邦楽で考えてみました。

邦楽といってもいろいろあるので、それぞれに違うのが面白いなと思いました。
たとえば、同じ室町時代の言葉を使っている能楽と狂言。
能楽は正直字幕が欲しいと思う時があるのですが、
狂言はそのまま笑えますよね。何が違うのだろうと考えると、
同じ室町時代の言葉でも、文語と口語の違いじゃないかな、と。

源氏物語の原文での読書はあまりにも難解すぎて放擲してしまったのですが、
平家物語は最低限の脚注があれば結構スムーズに原文で読めます。
これは時代の違いというより、書き言葉と話し言葉の違いの方が大きいような気がします。
平家物語は琵琶法師が弾き語りをするもので、聞いてわからないと話にならないのです。
だから、比較的平易な言葉を選んで作られているのかもしれません。
それでですね、平曲などをきくと、原文で十分理解できるので、
やっぱり眼前に場面が見えてくるような迫力があるのです。

江戸時代の浄瑠璃などもやはり話し言葉に近いのか、
比較的わかりやすくはあります。まあ最低限の予習は必要ですが。
そして面白いのが、同じ江戸時代が中心だった地歌の歌詞です。
地歌というのはかなり包括的なジャンルであるので、
わかりやすい歌詞のものもあれば、もはや言葉遊びに近い難解なものまであります。
地歌には作曲家がいただけでなく、専門の作詞家も存在していました。
西洋で言えばサロンのようなものだったんだと思います。
類語、縁語、古典からの引用、とにかく難解で、初めて聞いてわかるというのは
かなりの知識人だと思います。

歌詞もそうなんですが、音楽自体も地歌はちょっと特殊です。
ほかのジャンルに比べて宮音移動(移調)の頻度が高い。
つまり複雑なんです。
その上、旧作のごく一部の引用などをしてなにかをほのめかしたりします。
これは和歌の本歌取りのようなものですね。
とにかく、知っていることが前提というところがあるんです。

なんで地歌がこんなに特殊なのかというと、
やはり閉じた環境の中での音楽だったからだと思います。
作曲家もいわば職業作曲家兼演奏家でしたし、
前述のとおり、たいていは歌詞も専門の作詞家が作っていた。
聴衆はというと、これもまた仲間の作曲家、演奏家や、
家柄のよい家庭などだったりします。
こういう閉じた環境で新古今和歌集的な技巧の追及が行われたのではないかと。

思えば、能楽も、猿楽から能楽になった時に、歌詞が難解になったのではないかとも思えます。
能楽は武士の式楽ですから、やはり知識階級が相手ということもあるのでしょう。

で、地歌や能楽がつまらないかというと、そうではないですよね。
聴いて直接的に理解できるようになるまで予習する方もいますし、
まあそのほうが面白いことは確かなのですが。
これは上述のロシアオペラの魅力の源泉のようなことかもしれません。
たとえば地歌は上方が中心地であったため、旋律に上方言葉の影響が
かなり強いとされています。
大阪の作曲家の作品と、京都の作曲家の作品では、
やはり全然違うんですよ。
声楽作品ならでは、ということなのかもしれないですが、
純粋器楽部分まではっきりと違うので面白いんです。
当時から大阪と京都ははっきり違う風土だったんですね。
そんなところだけでも面白かったりするわけです。

声楽作品の鑑賞においてどの程度の語学力が必要かというのは結構複雑です。

2013年10月2日水曜日

補筆のあり方

作曲者の死とか、何らかの事情で作曲が中断されたまま残された作品は多いですね。
それらは、同時代、あるいは後世の研究者や作曲家によって補筆されたりします。
ドニゼッティの最後のオペラ、 「アルバ公爵」もその一つです。

この作品はすでにいろいろな人の手で補筆されています。
弟子であったサルヴィ、指揮者のシッパースなど、
録音もそれなりにありますし、とりわけ珍しい曲というわけではありません。
しかし、本来フランス語のグランド・オペラとして構想された曲ですが、
フランス語のものはなかったんですね。
それで、 バッティステッリ補筆版のこのCDを買いました。



(Amazon) (HMV) 

そういうわけなんで、 バッティステッリの補筆は特に気にせず購入したのです。
1枚目はドニゼッティが完全に書いている、第1幕、第2幕、ということで、
なんということなく聴いていたのですが、
2枚目、いきなり二度のトロンボーンの和音によるアッコンパニャート が始まり、
なにごとか、と思い、解説を読んでみました。
サルヴィやシッパースは出来の良し悪しはともかく、
「ドニゼッティっぽい」補筆を心掛けているわけです。
ですが、 現代音楽作曲家でもあるバッティステッリは開き直って、
まったく自分のスタイルで補筆しているんです。
上述のアッコンパニャートなんて開幕のファンファーレに過ぎません。
ドニゼッティが残した部分との様式的祖語はもう確信犯的にやっています。

あまりにふざけすぎているんじゃないかなあ、と、最初は思いましたが、
次第にこう思い始めました。
この補筆だと、ドニゼッティがどの部分を残していたのか、
どの部分がバッティステッリの補筆の部分なのか、
もう聴いただけですぐにわかるわけです。
考えようによっては、これは良心的な補筆といえるのではないか?と

第4幕のフィナーレなんてすさまじいですよ。ほんの一部分のヴァイオリンパートだけ
ドニゼッティがスケッチ残していたんだな、ってすぐわかります。
ほかのパートがカオスですから(笑)。

補筆っていうものは結局どうしたって本物にはなれないわけです。
様式的に合わせようと努力したって、どうしても本人のものじゃない。
これは当たり前のことです。
じゃあ、開き直って、こういう風に、どこがオリジナルでどこが補筆か、
はっきり分かるようにしておく方が、あるいは良心的なのかもしれません。
補筆というもののあり方を考えさせる補筆でした。

2013年1月13日日曜日

頑張れドニゼッティ研究者

最近はロッシーニばかり聴いていて、
久しぶりにドニゼッティを聴いてみました。

「ゴルコンダの王女アリーナ」




(Amazon) (HMV)


1828年初演作品ですから、ロッシーニはもうパリにいる時代ですね。
ロッシーニのパリ時代の諸作品は、たしかに絢爛なパリの様式を
感じることができますが、ロマン派というには、
私はなにか戸惑いがあります。
どこか、古典的均整を強く感じたりします。
有名な「ウィリアム・テル」のシンメトリー構造などその最たるものでしょう。

そういうロッシーニをずっと聴いて慣れてきて、
ますますロッシーニの天才を痛感していましたが、
上記ドニゼッティのあまり有名でない作品を聴いて、
ドニゼッティはロマン派なのだなあ、と強く感じました。

まあ、これは演奏者たちがあまりにも熱演過ぎる、ということも
関係があるのかもしれません。
20世紀初演のライヴ録音なのです。

この作品はしかし、「セミセリア」といういささか古い形式です。
ロッシーニでいいますと、「どろぼうかささぎ」や「チェネレントラ」 などが
「セミセリア」のジャンルに属します。
これがまた説明困難なんですが、セリアとブッファの中間、というわけでもないんですよ。
むしろ様式的なジャンルとしての分類でして、
典型的な筋立てとしては、いわゆる「救出もの」があります。
セミセリアではありませんが、お話的には、
モーツァルトの「後宮からの誘拐」やベートーヴェンの「フィデリオ」を
思い出してください。ブッファ的な役柄
(前者のオスミンや後者のロッコ)、
セリア的な役柄(前者のセリム、後者のドン・フェルナンド)、
そしてヒロインと主役ですね。
こうした筋立てが好まれた時期があり、それにふさわしい様式として
セミセリアというものが現れたようです。

ドニゼッティはしかし、この「セミセリア」の最後の巨匠ともいえる人で、
晩年の「シャモニーのリンダ」も「セミセリア」、しかも救出ものです。
それはドニゼッティの気質と関連していたかもしれません。

さて、上述の「アリーナ」ですが、
ロッシーニのパリ時代初期と同時期とは思えないほど、
ロマン的芳香がかなり強いのでおどろきました。
パッパーノなどはヴェルディの書法に決定的影響を与えたのは
ドニゼッティではないか、と言っていますが、そうかもしれませんね。
反対に、ドニゼッティ初期はロッシーニの亜流といわれることもありますが、
確かに影響は避けられないでしょうが、亜流とは思えません。

ところでこの作品、こんなにマイナーな作品なのに、
フィナーレが3種類もあるそうです。
ここでの演奏は、時代的に一番ふさわしと思われる
ロンド・フィナーレを採用しています。

さて、ドニゼッティについて考えてみました。
ロッシーニにはペーザロという聖地があり、
ゼッダら献身的で勤勉な研究者と、
ロッシーニ歌手たちによって、
最新の研究成果をロッシーニ音楽祭という舞台で
毎年世に演奏を送り出しているという、
すばらしい循環が出来上がっています。

対して、ドニゼッティは、生地ベルガモで音楽祭をやって、
いろいろ復活上演などされていますが、
ロッシーニほど研究は進んでいない状況です。

たとえば、彼のもっとも有名な作品の一つ「ランメルモールのルチア」、
その狂乱の場の調性が本来の調性(複雑に変化します)に戻されたのは
実に最近のことで、それまではト長調で統一されているような
印象に改変されていました。
さらには、この狂乱の場でのフルートとハープのカデンツァは
まったく第三者の創作であるばかりでなく、
そもそもオブリガート楽器はフルートではなく、
機械式のグラスハーモニカということで、
そういう本来の形に戻されたのも21世紀になってからです。

重要なのは、「もっとも有名な作品でさえそうした状況」ということです。
ロッシーニの作品が次々と最新研究の成果を踏まえて
クリティカル・エディションを刊行し、ペーザロで上演する、
そうしたことがどんどん行われているのに、
ドニゼッティはまだまだこれからなんです。
そして、「ルチア」でわかるとおり、彼の作品は
かなり改変されているようです。

ベルガモもペーザロのように、ドニゼッティ研究・演奏のメッカと
なることを祈りたいと思います。
がんばれ、ドニゼッティ研究者!

2012年12月27日木曜日

旋律美の功罪

投稿の題をご覧になって、
ん?旋律は美しいにこしたことはないじゃないか、
とお考えのみなさん、私もそう思っていました。
器楽作品などではそれでいいのかもしれませんが、
ヴェルディの中期作品を考えるうえで、
結構「功罪」両面がポイントになるのではないかと、
いろいろ考えることがあったので、書いてみます。

ヴェルディ中期といわず、全ヴェルディ作品でも
人気の高い「リゴレット」「トロヴァトーレ」「トラヴィアータ」の
3作品ですが、この3作はヴェルディが究極的に
大アリア形式(シェーナ‐カヴァティーナ‐シェーナ‐カバレッタの定型)を
追求した最後の作品であることは指摘されているところですが、
逆に考えれば、つまりは究極的に旋律美を追求した、
とも考えられるわけです。

実際、この3作品は、それぞれの方向性・性格の違いはあれど、
ヴェルディの中でもとりわけ印象深い旋律にあふれていることは
共通して言えると思うのです。

いいことじゃないか、というのはそうなんですが、
リゴレットに関して、ある方と話していてハッとしたのです。

「リゴレットは笑われなくちゃいけないんですよ、
どんなに真面目に怒っても憐れみを求めても。
実際に歌ってみて気が付きました。」

リゴレットは道化です。
その呪われた宿命からは逃れられない、
楽譜を読み込むとそうとしかとれない、というのです。

モンテローネ伯爵を嘲笑の的にしたリゴレットは、
まさに「呪い」のように、自身にも不幸が降りかかるわけで、
愛娘ジルダを返せ、という彼の怒りの様子は、
音楽が迫真なだけにその旋律にまかせて歌ってしまう罠があるのですね。
確かに、リゴレット自身は真面目に怒らなければならない。
でも、観客は廷臣たち同様、それをみて笑う気持ちにさせなければならない。
そうなんです、オペラは演劇なんですよね。

ヴェルディが果てしない同情を寄せて書いた
リゴレットの旋律は、その美しさゆえに、
それだけでドラマを作り出してしまう。
それは歌い手にとっては落とし穴でもあるということなのです。

「トラヴィアータ」ではどうか。
ヴィオレッタに息子と別れてくれ、と迫るジェルモン。
第2幕の2人の二重唱の胸に迫ることといったらありません。
わたしはたびたび泣きそうになります。
ところで、演劇的にこの場面を考えたらどうか?

「かわいそうに、お泣き」と言うジェルモンは、
はたして本心からそう言っているのか。
この二重唱の旋律があまりにも真に迫りすぎ、
私たちはほとんど他の可能性を考えられなくなります。
が、歌詞だけで考えると、
息子と別れてほしい一心で、
みせかけの同情をよせている、
という、あまり考えたくない可能性も排除できないわけです。

ヴェルディの旋律はあまりにも美しく、同情に満ちています。
が、あまりにも美しいため、演劇的にも
美しい解釈しか許されない、というのはどうなんでしょうね?

興味深いことにこの3作以降ヴェルディは大アリア形式と決別します。
私が考えるにこの3作はヴェルディが旧来の形式と旋律美を
徹底的に追求し、そしてそれでどこまで演劇的に
核心に迫れるか、その実験だったように思えてきました。

上記の2つの例だけでも、あまりにも美しい旋律は、
演劇的な解釈の幅を狭めてしまう、
そんな「罪」の部分をヴェルディも感じたのではないでしょうか。



なにかのきっかけでお立ち寄りいただいたみなさん、
今年一年ありがとうございました。

また来年もよろしくお願いいたします。
それではよいお年を。

2012年11月7日水曜日

ワーグナー「オランダ人」の様式的違和感

私は難しい台本が苦手で、ワーグナーはあまり聴かないのですが、
だからこそ歴史的録音はほとんど聴いていないため、
迷わず購入したのがこれ。

バイロイトの遺産~ワーグナーの幻想

 

(Amazon) (HMV)

まず思ったのは、オケの精度という点では、
確かに現代のオケのほうが優秀かもしれない。
だけど、なんというか、映画音楽を聴いているような気がするんです。
メトの「指輪」の最新映像など、舞台の豪華絢爛さもありますが、
なにかハリウッド映画を見ている気分になります。

別に本場が一番というわけではないですが、
上記のBOXに含まれる歴史的演奏は、
メカニックの精度を語るのは何か違う気がしました。
それに、歌手は断然現代よりいいですね。
これはロッシーニなどと正反対のことなので興味深いです。

ところで、以前からどうも居心地のわるい作品があって、
それが「さまよえるオランダ人」なのです。
どうしても違和感がぬぐえない。
この素晴らしいBOXセットでもそれは変わりませんでした。

そんなとき、ピリオド楽器による、初稿による
「オランダ人」の演奏をみつけました。
ヴァイル指揮カペラ・コロニエンシスによるものです。



国内盤  (Amazon) (HMV)
輸入盤  (Amazon) (HMV) 

ここで重要なのは、ピリオド楽器演奏ということよりも、
完全なる初稿を使用しているという点です。
詳しくはライナーノートに譲りますが、
ワーグナーは生涯にわたってこの作品を改訂し続け、
結果的に実用譜のもととなりえる稿を残さなかったのです。
これは「リエンツィ」も同様なのですが、
ワーグナー自身、ひいてはバイロイトで否定された過去である
「リエンツィ」と違い、オランダ人はバイロイトの演目にもなります
(「リエンツィ」をいくら否定しようと、原点であることには違いなく、
それを自覚しているからこそ余計に葬り去りたかったんでしょうが)。

そこで、出版に当たり、ワインガルトナーが一種の
架空の稿を仕立てたのです。
これはある程度仕方ないことだったとは思います。
なにしろこの作業はワーグナーの死後、1896年に行われたものですから。

ただし、当時としては「指輪」や「パルシファル」を皆が経験しており、
晩年のワーグナーの響きにあまりにもなじみすぎていたのでしょうね。
この初稿による演奏は、ある意味「リエンツィ」の影が見えるともいえます。
言い換えれば、グランド・オペラの要素が垣間見えます。

ワーグナーが生涯にわたって、10回以上の改訂をつづけたのも、
結局それが多かれ少なかれ影響しているように思います。
ただ、「リエンツィ」と決定的に違うのは、台本です。
「オランダ人」ではすでにワーグナーの世界が出来上がっています。
ただ、音楽は台本ほどには決定的にワーグナーではないと思いました。

つまり、ワインガルトナー版、つまり出版譜は、
あちこちの改訂を切り貼りし、ワーグナー自身でさえ
ついになしえなかった「体系的改訂」を
他人が無理やりやったものなんですね。
ああ、なるほど、と思いました。
どうも居心地わるい気分なのは、こういう背景があったわけですか。

たとえば、有名なゼンタのバラード 、
初稿ではイ短調(出版譜はト短調)ですが、
音を下げたのは、たぶん、ロッシーニあるいはマイアベーアの
グランド・オペラのソプラノではなく、
ドラマティック・ソプラノで映えるように、という配慮じゃないでしょうかね。
このバラード、いつ聴いても違和感を覚えていたのですが、
本来もっと軽やかな声質が前提だったように思います。
これを晩年のワーグナーの様式に無理なく溶け込ませるには、
本来なら全面的に書きかえなきゃだめでしょうね。

さて、「オランダ人」をどうあつかうか、ですが、
ワインガルトナー版ではやはり無理があると思います。
ワーグナー自身が不満であったとしても、統一感のある初稿を使うか、
様式的齟齬を承知の上でそれでもワインガルトナー版を使うか。

はじめに書いた通り、私は決してワグネリアンではありませんので、
生粋のワグネリアンの方はどうお考えなのか、興味のあるところです。

2012年9月8日土曜日

ロッシーニの「歴史的名盤」は信用するべからず!

このブログで、事あるごとに書いてきましたが、
ヴェルディやワーグナーはともかく、
ロッシーニに関しては、過去のどんな名歌手よりも、
現代のスペシャリストの方が断然いいです。
最近「セミラーミデ」の2つの演奏で再確認したので書いてみます。

「セミラーミデ」はロッシーニのイタリア時代最後の大作にして傑作です。
非常な難曲でもあり、復活させたといわれ、「歴史的名盤」 とも言われる
サザーランドとマリリン・ホーンのコンビ、ボニング指揮のDECCA盤で、
私は最初に聴きました。
廉価版ですが、対訳もついていて、お得だと思ったからです。

ですが、ああ、なんと浅はかだったことか!
この盤は問題だらけです。ですからリンクも貼りません。

まず、女性2人、サザーランドとマリリン・ホーンは、
なんとか装飾音形もこなしていますが、それだけなんです。
それ以上のことはなにもできていない。
劇性も愉悦もありません。
でも、男声陣はもっと悲惨です。
概してロッシーニのテノールは難しく、
それゆえに現代ではいわゆる「ロッシーニ・テノール」という
専門歌手がいるわけですが、
この録音当時、1966年でそれは望むべくもなかったわけで。
聴いているだけで苦痛なレベルです。

そして、大規模なカットがあります。
およそ全曲の三分の二くらいの長さまで刈り込まれています。
それだけならまだしも、この曲の最大の見せ場、
ラストが改変されています
ネタバレになるので大まかに言えば、ハッピーエンドなのですが、

これは致命的です。
ラストのアルサーチェの即位を喜ぶ民衆の合唱、
これには一抹の陰りがあるんですよ。
ヴェルディは、個人の悲劇と民衆の喜びを重ね合わせて
幕とすることを得意としましたが、
このラストの合唱はいわばその萌芽です。

さらに言えば、ボニングの指揮。
この人、凡庸だとかやる気がないとかいろいろ言われることが多いですが、
少なくともこの録音はそういわれても仕方がないと、
後述のゼッダ盤を聴いて思いました。

さて、もう最初に聴いただけで憤懣やるかたなく、
1992年のロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける
ゼッダ指揮のライヴ録音(廃盤)を中古で入手しました。
ゼッダの指揮は遅いどころか、歌手の技量が低く、
体感的にも重いボニング盤よりも快活で、かといって
スピードを出しすぎることなく、まさに愉悦を感じます。
それにもかかわらず、およそ4時間という長さなんです!
改めて「セミラーミデ」は本来こうした大作だったのだと実感。
でも、ぜんぜん長いと感じませんよ!

歌手陣は、丁寧に歌っていますし、技量もあります。
現代のロッシーニ歌手ならもっと上かもしれませんが、
不満を抱くほどではないです。上出来です。
ライヴ録音ということで、 最高の音質というわけではないですが、
私はむしろ、ライヴならではの熱気の方が長所になっていると
感じました。個人的にはライヴ録音好きなんです。

これは完全ノーカットの上、ラストの改竄もされていない
きちんとした本来の歌詞です。
アルサーチェの絶望をしらない民衆の合唱、
そうすると、ときおり混じる陰りが活きてくるわけです。

ゼッダの指揮はやはりよいです。
この演奏を聴いて、ボニング盤がいかに凡庸な指揮だったかわかりました。
恐怖の表現、勇ましさの表現、愛の表現、絶望の表現、
そして愉悦。すべてにおいてさすがと思わせられました。

それにしても、ゼッダ盤がある現代においてなお、
ボニング盤が「名盤」扱いされているのは、
どうにも理解に苦しみます。
やはりロッシーニにおいては、新しい演奏の方がよく、
「歴史的名盤」というのはアテにならないと、
何度目かわかりませんがまた確認した次第です。

2012年8月4日土曜日

マリア・カラス「30のオペラ全曲盤」BOX

実を言うと、長いことマリア・カラスは苦手でした。
主に2つ理由があったのではないかと思います。

1.オペラを聴き始めたばかりの頃に聴いたこと

最近まとめてカラスを聴いて感じたのですが、
その声そのものよりもなによりも、役作りが非常に上手いということ。
そのオペラがどんな作品か、その登場人物がどのような役柄か、
私自身がよくわかっていなかったため、この点において
役作りの巧みさということがまったくわからなかったこと。

2.ステレオ録音しか聴いていなかったこと

そしてもうひとつ、カラスの全盛期を過ぎた時期の
録音しか聴いていなかったこと。
今回モノラル期、1949年から1957年の録音を聴いて、
彼女の全盛期が驚くほど短かったことがよくわかりました。


今回まとめて聴いたのはこれです。

マリア・カラス 30のオペラ全曲集(64CD+1ボーナスCD+1CD-ROM)


(HMV) (Amazon)

今回の商品はあまりに価格差がありすぎるので、
安いHMVを先にリンクしました。

さて、とりあえずこれだけ浴びるほどにカラスを聴くと、
とりあえず昔からの苦手意識はとりあえず払拭でき、
幾分公正な判断ができるようになったと思います。

すぐれたベルカント歌手のひとりであるということは、
やっとわかってきました。
それに、カラス(やほかの歌手たち)が復活させなければ、
ロッシーニやドニゼッティのオペラは
未だに一部の作品だけしか聴くことができなかったでしょう。

ただ、私はロッシーニやベッリーニに関しては、
カラスの優れた役作りを認めつつも、最上というには戸惑いがあります。
様式的にはやはりもっと軽い声質で、装飾を聴かせる歌手のほうが
しっくり来ると思います。これは豪華な共演している他の歌手にもいえますが。
ドニゼッティはアンナ・ボレーナあたりは難しいところですね。
たしかに伝説的な演奏だけあって圧倒されたのは事実ですが、
ドニゼッティ作品として、ということであるとどうなのだろう?と。

ヴェルディやプッチーニに関しては、一部の作品を除いては、
こうした不満を感じることはなく、
共演している ディ・ステーファノやゴッビという名歌手、
セラフィンやヴォットーといった指揮者ともども、
すぐれたオペラ全曲の歴史的録音として楽しめました。

一部の作品を除いて、と述べましたが、
たとえば「トロヴァトーレ」。
カラスがあまりにも圧倒的な存在感があるものですから、
ヴェルディ自身この作品の中心軸として考えていた
アズチェーナより存在感があるのはこまりますよね。
レオノーラの役はつくっているのですけれど、
まあこれはいかんともしがたい。
ピリオド楽器による「トロヴァトーレ」 について書いたとき、
アズチェーナだけ異質だったのをいぶかったものですが、
よく考えてみるとやはり意図的だったといえるのかもしれませんね。

そしてカラヤンの指揮も、この作品の録音に関しては
作為的なところが多少鼻につきました。
旋律美という点においてはおそらくヴェルディでも随一と思われる
この作品を、素直に聴かせるというのは意外に難しいのかもしれません。
セラフィン盤が「トロヴァトーレ」の名盤とされるのはこういうところかな、と。

逆に圧倒的だったのはマクベス夫人です。
これは全曲盤としても、 デ・サーバタのキビキビした音楽作りもあって
すばらしいのですが、カラスの歌という点でも最上のものの一つでしょうね。
ヴェルディはこの役について、マクベス夫人を歌った歌手を例に出し、
こう述べたということです。決して美声とはいえないカラスにとって、
まさしくうってつけの役だということがわかります。

「タドリーニはたいへん美しくて立派な歌手だが、私はマクベス夫人は
醜くて邪悪に見えるべきだと思う。タドリーニは完璧に歌うが、
マクベス夫人は歌ってはならないのだ。
タドリーニはすばらしく透明で力強い美声をもっているが、
私はマクベス夫人の声はむしろしゃがれていて、
暗い響きがするべきだと思う。
タドリーニの声は天使の声のようにきこえるが、
私はマクベス夫人の声はもっと
悪魔的にきこえるべきだと考える。」

(ヴェルディ全オペラ解説 1[高崎保男]より引用)

(Amazon) (HMV)

もうひとつ、作品自体のことで。
ロッシーニなどでは最近の専門の歌手のほうが
絶対的にいいと思いましたが、
スポンティーニやグルックに関しては、これはこれでありだな、と。
マイアベーア→スポンティーニ→グルックとさかのぼっていくと、
不思議なほど違和感がありません。
まあ、マイアベーアの無国籍風音楽
(フランス・グランド・オペラの代表的作曲家でありながら!)と、
フランスの伝統に基づいたスポンティーニとグルックは、
かなり違うはずなのですが、
妙に扇情的なその音楽は本質的な部分で似ているのかも、と感じました。
そういう音楽では確かにカラスは圧倒的な存在感を示すので、
そういう意味で、「これはこれであり」と思ったわけです。

2012年7月14日土曜日

オペラにおける視覚の重要性

なぜ今更こんな当たり前のことをテーマにしようと思ったかと言いますと、
グノーの「ミレイユ」のBDを観て痛烈に感じたからです。

グノー:『ミレイユ』全曲 N.ジョエル演出、ミンコフスキ&パリ・オペラ座、ムーラ、カストロノヴォ、他(2009 ステレオ)

(Amazon) (HMV) 


グノー はマスネ以前におけるフランス・ロマン派のオペラ作曲家として
重要な位置を占めていますが、映像は珍しいです。
「ファウスト」以外は音盤も珍しいといった具合で、
ですから、ミンコフスキが指揮した映像ともなれば断然「買い」となります。
 
HMVのリンク先にはいつの間にかあらすじが載せられていますが、
私が買ったときは何もなかったので、本当に何も知らない状態で
このBDを観ました。

話としてはベタもベタ、愛し合うカップルが男の貧しさゆえ、
裕福なヒロインの親に結婚を反対される、というもの。
さて、結末は?というところなのですが、
よくもこんな単純な話を全5幕2時間半もの
大作に仕上げたものだと感心します(笑)。

しかし、この上演、南仏の美しさが際立っていて、
夕暮れ時や夜、明け方、真昼、といった各時間による違い、
麦畑の美しい情景、夜の不気味さ、砂漠の容赦ない日差し、
とてもすばらしく視覚化されています。
とても舞台の上とは思えないほどにすばらしいものです。

台本のあらすじは単純ですが、たとえば収穫祭などでは
喜ばしい踊り、第3幕では嫉妬に狂ったウリアスや、
その後の逃亡での夜の不気味さ、
終幕では、宗教音楽の大家でもあったグノーらしい幕切れと、
なかなかに多様な音楽を作曲できるように
下準備はされていると感じました。
このあたりは台本作家は十分に役目を果たしています。

実は、以前音盤だけで聴いたときには、
正直この作品は退屈だったのです。
この映像は確かにミンコフスキのメリハリの利いた音楽作りの
すばらしさもありますが、それ以上に舞台の美しさが
ひときわ目立ったものでした。


この作品は南仏の風景の美しさと一体になったとき、
はじめてその音楽が活きてくるものだと痛感したのです。
その意味ではジョエルの演出は、ミンコフスキの指揮とともに
大いにたたえられてよいと思います。

この作品は、ほかのどんなオペラよりも、
映像が大切だと思います。
音盤で退屈な思いをされた方にこそ、
この映像を観ていただきたいと思います。

2012年4月23日月曜日

苦悩は愉悦に勝るのか?:ロッシーニを正当に評価しよう

どうも日本のクラシックファンは独墺系の交響曲ばかり聴く方が多いですね。
苦虫を噛み潰したような表情でドイツ語圏の作曲家の生真面目な作品を
苦悩を共有しながら聴くという一種修行のような聴き方が
いかにも「自分は高級な人間だ」という気持ちにさせてくれるからでしょうか。

さて、何度か書いてきましたが、最近ロッシーニの天才に圧倒されています。
しかし彼の才能というのは、上述のような高踏的なものにしか価値を
見いだせない方には、一生縁がないものでしょう。

ロッシーニは、いまだにブッファの作曲家と思われていますし、
実際彼の生み出す愉悦は筆舌に尽くしがたいレベルに達しています。
無論、私が主に圧倒されているのはその点なのですが、
それだけでは誤解を助長しかねないので、セリア作曲家としての
ロッシーニにまず触れておきます。

彼の時代はちょうどセリアの転換点のひとつでもありました。
基本的にセリアは王侯貴族とのかかわりが伝統的に強く、
どんな悲劇でもハッピーエンドがお約束でした。
ロッシーニの少し前の世代から、次第に悲劇的エンドが出てきます。
そして、それを本格的に取り入れ、一般化したのはロッシーニだといえます。

ただ、現代では考えがたいことですが、当時としてはそれは
あまりにも生々しく、衝撃的に過ぎるという面もあったようで、
ロッシーニの多くのセリアには、悲劇的エンディングとともに、
ハッピーエンドの別バージョンが存在します。
「タンクレディ」などはオリジナル悲劇的エンディングが発見されたのは
比較的最近のことです。
また、CDのように融通の利くものは別として、実際の上演では
どちらかのバージョンを選ばなければなりません。
どちらもロッシーニとはいえ、やはり悲劇的エンディングのものは
一般的イメージのロッシーニとはかなりちがいます。
ゾッとするような効果をもたらします。

ここで両方のエンディングを収めたCDをいくつか紹介しておきます。
ぜひ皆さんのご自分の耳で味わってください。

 「タンクレディ」



(Amazon)
言わずと知れた初期のセリアの名作です。
これはリブレット付きですが廃盤ですので値が張ります。
しかし、それだけの資料価値は十分あります。

ちなみに、ピリオド楽器演奏で両方のバージョンを収録したものもあります。



(Amazon)
こちらも廃盤ですが、私は運よくアウトレットで入手できました。
こうした廃盤ものもタイミングが合えば安く入荷できるチャンスがありますので、
今は高くとも、チェックしておいてみてください。

「オテロ」



(Amazon)
この「OPERA RARA」というレーベルは非常にすばらしいです。
このオテロに限らず、別バージョンを可能な限り収録したり、
それ以前にまずほかでは録音がないような作品をリリースする、
オペラ専門レーベルです。
しかも、ブックレットがこれまたすさまじい詳細さと美麗さで、
少々高めですが、必ず満足できます。
この「オテロ」はシェイクスピアが原作とは考えない方がいいです。
その前提を忘れなければ楽しめます。
悲劇的エンディングはかなり衝撃です。
当時ならいかばかりだったか、と思います。

一つの商品で両バージョンを収録しているのは
私の所有しているものではこれくらいかなと思います。
あとはですから、悲劇的エンディングの演奏と
ハッピーエンドの演奏を少なくとも両方揃える必要があるわけです。

さて、ロッシーニが悲劇的表現にも長けていたということの
証明の後で矛盾するようですが、やはりロッシーニは愉悦の人です。
ドイツ的苦虫はいくらでもいます。
でも、ロッシーニのように、有無を言わせぬ愉悦で
全身を満たしてくれる作品を書く作曲家は、本当に稀です。
私はそこにこそロッシーニの天才を感じずにはいられないのです。

「セヴィリアの理髪師」のようなもうすでに有名な作品は今更ですので、
この2作品をぜひ紹介したいです。これらにしても
ロッシーニ好きにとっては今更なのですが…。

「マティルダ・ディ・シャブラン」




(Amazon)(HMV)
まず脅してみましょう(笑)。第1幕だけで2時間かかります。
はたして冗長な作品でしょうか?
2流歌手ならその欠点が出るかもしれませんが、
上記のリンクの音盤は、フローレス歌うコッラディーノが
とりわけすばらしい!。こんな難役を歌いこなすのは
現代では彼くらいでは?
そう、こういう歌手に恵まれたとき
この作品は筆舌に尽くしがたい愉悦の3時間をもたらしてくれます。
ロッシーニ演奏の問題のひとつではあります。
優秀な歌手、それもヴェルディやワーグナーなどと根本的に違う
技巧が必要なのです。
ロッシーニの作品需要が高まったおかげで、こうした
ロッシーニ歌手が増えてきて、好循環をしてきています。
これはマイアベーアの話を書いたときにも少しふれました。


「オリー伯爵」



(Amazon)(HMV)
この作品は間違いなく傑作なのですが、
この作品ほど誤解にさらされた作品もないでしょう。
音楽の大半は大カンタータ「ランスへの旅」の再利用というところです。

・「ランスへの旅」

(Amazon)(HMV)
こちらは復活演奏のもの。アバドの旧録音。
安いのにリブレットがついている点でオススメかもしれません。

(Amazon)(HMV)
もっと安いアバド新録音。ベルリンフィルという点がウリでしょうか。
安いので両方持っていてもいいと思います。

ところでこの「ランスへの旅」、フランス王の戴冠式のための
機会音楽です。
そしてここも独墺系苦虫がお好きな人が良く勘違いする点ですが、
当時は機会音楽の方に作曲家は全力を尽くしました。
たとえば、ザルツブルク時代のモーツァルト、
交響曲とセレナード、どちらが名作が多いでしょう?
偏見と先入観さえなければ圧倒的に後者であるとわかります。
これはもちろん理由があります。
機会音楽が必要とされるような機会には、使われる楽器の種類も数も、
そして集められる楽員の力量も特別なのです。
モチベーションも高まりますし、自分の力量を正当に評価してもらうには
絶好の機会でもあったわけです。

というわけで、ロッシーニの「ランスへの旅」も最上の音楽です。
ところが機会音楽といううのは、それ一回きりの音楽でもあるわけです。
紛失したりすることはめずらしいことではなく、
実際「ランスへの旅」もロッシーニは保存する気はなく、
復元はロッシーニルネサンスの最大の成果ともいえます。

ただ、モーツァルトがセレナードを交響曲に編曲しているように、
自分のベストの音楽は別の文脈で生き残らせたいというのも当然です。
そこでロッシーニは「オリー伯爵」という傑作オペラとして
その名残を残そうとしたわけです。

不思議なのですが、バッハは世俗カンタータ(機会音楽です)を
いくつも教会カンタータやオラトリオに音楽を別の文脈で
生き残らせていますが、19世紀の学者は「聖化」と称してむしろ礼賛しました。
それが、ロッシーニの場合、
なぜか怠惰の象徴のようにいわれることがあります。
これが全くの的外れであることは、「ランスへの旅」と「オリー伯爵」の
両方をきちんと聴けばわかることです。
とにかく音楽は極上です。
ぜひお確かめください。

このような愉悦に満ちた音楽は、本当に
苦悩に満ちた音楽に劣るのでしょうか?

2012年4月18日水曜日

アンナによるアンナ:ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」

最近は主にロッシーニやドニゼッティによるオペラを
中心に聴いているのですが、これは映像で観ました。
ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」のウィーン国立歌劇場の新プロダクションです。


(Amazon)(HMV)
これが本当に素晴らしいのですよ!
偶然にもヒロインと同じ名前のアンナ・ネトレプコ
によるアンナ、ガランチャによるジョバンナはもちろん、
なによりダルカンジェロによるエンリコが貫録というかわかりやすい
悪人ヅラといいますか(失礼!)、なにしろ歌の実力はもちろん、
視覚的にも非常にわかりやすくてよいです。
日本語字幕はないですが、よく知られた物語ですから
なんとかついていけると思います。
どうしても日本語訳が欲しい方はこういう本もあります。
おぺら読本対訳シリーズ(40)アンナボレーナ/ガエターノドニ


私は現代的演出もいいとは思いますが、
すくなくともこのアンナのような作品の場合、こうした
保守的衣装と時代設定は必要不可欠であると思うのです。

アンナ・ボレーナ、すなわち英国国王ヘンリー8世の2番目の妻、
アン・ブーリンがこの作品のヒロインなのですが、
こうしたヒロインは、悲運に襲われても、毅然として
王妃と しての尊厳を忘れない強さがあり、
そこが歴史ものとしての背景の必然性だと思います。
女性に限らず、こうした強さを持った人物が現代において
はたして説得力をもって提示できるかというと、非常に難しいと思います。
高貴な立場という自覚が俄然説得力をもたせると思うわけです。
ですから、この作品や、「女王三部作」といわれる他の2作品、
「マリア・ステュアルダ」、「ロベルト・デヴリュー」にも
同じことが言えると思います。

そしてピドの指揮もオペラ指揮者として非常にツボを心得ていて、
聴いていて非常にここちよくドラマに入り込むことができました。
ウィーン国立歌劇場管弦楽団と合唱団がすばらしいのも言わずもがなです。

「アンナ・ボレーナ」は、 シルズ、グルベローヴァ、テオドッシウと
聴いてきましたが、なにしろ共演者にも恵まれなければなかなか難しいです。
カラスはちょっと苦手なので聴いていません。伝説ではありますが。

ぜひネトレプコには「マリア・ステュアルダ」、「ロベルト・デヴリュー」、
そしてグルベローヴァの「ルクレツィア・ボルジア」が、
ややキャリアの最盛期を過ぎてしまったかな、という感が否めないのが
非常に悔やまれるだけに、できれば傑作「ルクレツィア・ボルジア」の映像もお願いしたいところです。
もちろん「マリア・ステュアルダ」にはガランチャもぜひ再び共演して、
女の、女王の戦いを見せてほしいと思います。

2012年3月23日金曜日

L'Amour de loin

しばらくサボっていたので連続更新です。

サーリアホのオペラ、「彼方からの愛」、現代音楽では珍しいことに、
違う演奏のDVDとSACDがあります。

DVDの方はサロネン指揮フィンランド国立歌劇場管弦楽団、
クレメンス役にアップショウなどの顔ぶれ。


SACDの方は、ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団、
クレメンス役エカテリーナ・レキーナなどの顔ぶれ。


さて、絵付きのDVDと、音質でまさるSACDということで、印象がかなり違います。
DVDの方はその静謐な水を印象的に使った舞台演出とともに、
サーリアホ特有の透明感が相乗効果で非常に美しいです。
サロネンはサーリアホ作品をよく指揮していますし、しっかり把握している印象。

SACDの方は、さすがに細かいところまでよく聞こえます。
特に合唱がくっきりしていて、ちょっとびっくりしました。
ケント・ナガノは初演指揮者。
メシアンのアッシジのフランチェスコなどでも成功していますし、
ザルツブルク音楽祭でのこのオペラの成功に一役買っていたのかもしれません。

まあ、本音をいうと、私はサーリアホの音楽は80年代が一番好きなんですが。
とくに切り詰められた編成の作品での研ぎ澄まされた感性は、
これはすごい若手が出てきたもんだ、と思い、それから追っかけていますが、
保守的といわれるザルツブルクの聴衆を意識したのか、
語法が変化しているなと思います。
たぶん、現代音楽なんか聴かない人でも受け入れやすい方向へと。
これが自発的なものかどうかはわかりませんが、
80年代、あるいは、Du cristal、...A la fumee の2部作(89~90)の頃の
ほうが、個性的で魅力があったと思うのは懐古的にすぎるでしょうか。

サーリアホは2つ目のオペラも書いているようですが、未聴です。
ただ、まあ聴きやすい現代オペラがあるのはいいことなのかもしれませんが。
私は、新作の無いジャンルは滅びる、というのが持論ですので。

2012年2月28日火曜日

ピリオド楽器による「トロヴァトーレ」

一部で話題のピリオド楽器によるヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」
まだ一度しか聴いていないので消化不良の部分もありますが、とりあえず感想など。

ピリオド楽器演奏ではくどいくらい考証について記述があるものですが、
なんとオケのメンバー表すらないのは驚きました(苦笑)。
おかげで類推するしかありません。

しかし、かなり考証されていることは伺えました。
当時の管楽器先進国フランスとの関係を考えれば、
トロヴァトーレ作曲時点よりやはり古めの管楽器の音色なのは当然でしょう。
そして、トランペット、ホルンの音量がそれほどではないため、
実はヴェルディが重要な部分で愛用している
トロンボーンのペダルトーンがはっきり聴き取れます。
たしかにこういうバランスを前提にオーケストレーションしていたのだろうと思いました。

しかし、イタリアオペラはなんといっても歌手。
歌唱法ですが、完全なベルカントではありませんし、
古楽唱法でもありません。ヴィブラートを使うところでは使います。
はっきりと法則性を見いだせたのはヴェルディが重要な言葉を強調するとき
愛用したオクターブ下降の部分。この時は必ずヴィブラートをかけています。

個別の歌手の声量はですから、それほど大きいわけではないのです。
しかし前述のとおりオケ自体の音量とのバランスではこれで十分です。
オビには「アズチェーナ役のナエフも迫力満点」とありますが、
これはナエフがアズチェーナという異質な役割のため意図的なのか、
あるいはコンセプト理解不足なのか、まだ判然としませんが、
ヴィブラートをかけてベルカントに近い歌い方をしているだけです。
ですから結果的に声量が出て迫力があるように聞こえますね(苦笑)。

それから「トロヴァトーレ」というとみなさん気になると思われる
カバレッタ「見よ、恐ろしい火を」について書かなければなりませんね。

まずモダン楽器演奏のはなしなのですが、
唐突ですが、私は「オペラ歌手」としてのパバロッティは、
どんな役柄でもすべて「パバロッティ」という役柄を演じるので嫌いなのですが、
「声を出す器」としての能力を認めるにはやぶさかではありません。
ああ、こんな書き方する時点で本当に嫌っていることに気が付いた(汗)。

で、パバロッティがマンリーコを歌っているディスクでの件のカバレッタ、
トランペットとの相乗効果でものすごい輝きなんですよ。
おそらくモダン楽器演奏でこのカバレッタをここまで効果を出せるのは彼くらいかも。

しかし、ピリオド楽器演奏となると話は変わります。
意外なことにトランペットはそれほど目立ちません。
といいますか、木管楽器、弦楽器、テノールの声というアンサンブルでの
音色がすばらしい…これもこういうアンサンブルを本来意図していたのでしょうね。
でも、モダン楽器のトランペットはあまりにも音量があり過ぎるため、
パバロッティのような歌手との共演でしか光り輝けないようなものに変質してしまっている。

それから、前述のとおり、ヴィブラートは本当にここぞというところでしか使いませんので、
アリアでのノンヴィブラートでのオケと声の美しさは想像以上です。
あ、アズチェーナ以外ですけど(笑)。
本当になんで彼女だけこんなにベルカントに近いのかなあ。
役柄がアズチェーナだけに意図的なのかどうか深読みせざるを得ないじゃないですか。

とりあえず、ヴェルディもピリオド楽器で演奏する意義は十分あることはわかりました。
声を含めたオーケストレーションの音色が全く変わってしまっています。
つくづくヴェルディはそういう「声」を含めてオーケストレーションした人だったのだと
改めて強く感じました。ワーグナーとはそこがやはり違うんです。

あと、番号制オペラにはその良さがあると私は思います。
ライブだと特にそれがわかりますね。
特に、シェーナ→カヴァティーナ→カバレッタ の三段ロケットで盛り上がって、
興奮のままに拍手が沸き起こるのが好きなんです。
ワーグナーは「藝術とは絶えざる連続体だ」と言ったそうですが、
なるほど、番号制オペラから脱却したのも当然ですね。

2012年2月27日月曜日

ムソルグスキー受容:天才と優等生

私がクラシック音楽を聴くきっかけになったのは、
ピアノ版(断じて管弦楽編曲版ではない!)の「展覧会の絵」でした。
多分、この作品の、ピアノ原典版でなければ、ここまでクラシックにはまることはなかったでしょう。

ムソルグスキーは間違いなく天才です。
ただ、天才にありがちなことに、規則の類からかなり外れています。
19世紀の当時にあって、それを嘆いた作曲家は少なくなかった(才能を認めているからこそ)。
友人のR=コルサコフがいろいろと余計なことをやっているように見えるのも、
それは現代の視点から、もはやムソルグスキーの原典が
当時ほどにはいびつに感じられなくなってきているからなのです。

有名なところでは、代表作のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」。
ムソルグスキー自身の原典でも2つの版(1869年稿と1872年稿)が存在します。
そして困ったことに別の曲といえるほどに音楽が違い、
ゲルギエフのように両稿を全曲録音するやり方、
ロストロポーヴィチのように重複しない音楽はすべて演奏するやり方、
アバドのように、1872年稿をベースに、筋に一貫性を保持したままで済む部分は
1869年稿からももってくるやり方、とさまざまな対処が行われています。
そのうえにさらにR=コルサコフ改訂版が存在するわけです。

R=コルサコフ版は確かにムソルグスキーのオリジナルと比較すると
かなり凡庸で、原典版を聴きなれてから勉強のために聴いた私には
とても辛い思いをしてやっと全曲を聴いたというのが正直なところでした。
ただ、この「凡庸さ」が、この作品を普及させるために必要だったことは疑うべくもないのです。

そもそもなぜムソルグスキーが第2稿を書いたかというと、
検閲で「女性の見せ場がほとんどなくオペラとして上演するのにふさわしくない」
というわけのわからないクレームがついたからでした。
ただ、検閲でひっかからなくても、第1稿をこの当時上演してもとても成功はしなかったでしょう。
そこで第2稿ではいわゆる「ポーランドの場」を挿入して、グランド・オペラの様式に
近づけようとする努力を見せ、それはそれで成功していると思います。
ただしムソルグスキーは第2稿では、作品途中で主役のボリスを殺してしまうのです!
そして、そのあとの混乱がロシアの不幸を表すかのようで、
何とも言えない余韻を残し、この作品が傑作たるゆえんとなっていると思うのですが、
R=コルサコフはそれは当時の基準としてはあまりにも前衛的すぎると考えたのでしょう、
彼の改訂版ではボリスの死で幕を閉じるやり方に変え、
正真正銘のグランド・オペラとなっている、といえるでしょう。

そもそもバスが主役のオペラはそんなに多くありません。
私も今すぐに思い浮かぶのはマスネの「ドン・キショット(ドン・キホーテ)」くらいです。
ロシアのバスの大歌手・シャリアピンは当然「ボリス・ゴドゥノフ」を当たり役にしていました。
その後もロシアにはボリス・クリストフ等名歌手が多く生まれ、
「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続けました。
そこでは明確にバス歌手が主役であるというR=コルサコフ版の需要は大きかったのです。
そして結果的に「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続け、オペラ劇場の必須演目の一つとして
確固たる地位を築いたのです。

さて、ここでみたようにR=コルサコフ版の果たした役割も疑う余地なく大きかった…。
そして、ムソルグスキーのくすんだ独特の管弦楽配置と違い、
管弦楽の魔術師の一人であるR=コルサコフは、さすがに見晴らしの良い、
お手本のような管弦楽配置をしています。

この辺りは、「禿山の一夜」 の二人の版を比較するとよくわかると思います。
きらびやかでディズニー映画のようなR=コルサコフのそれと、
より土俗的で、今にも何かこの世ならぬものが現われてきそうな
ムソルグスキーのそれは、全く別の作品です。
どちらを好むかはやはり好みなのでしょう。

それは 「ボリス・ゴドゥノフ」でも同じです。R=コルサコフ版は私は耐えられないですが、
好きな人まで否定するつもりはないです。それなりの歴史的役割を担ってきた実績もあります。

そして「展覧会の絵」。これもラヴェルを代表格としてさまざまな管弦楽版 が存在します。
お分かりだと思いますが、私はラヴェルの編曲は好きではないです。
あれは近代フランスの管弦楽作品であって、断じてロシアの、ましてや
ムソルグスキーの作品ではないと思います。
ただ、受容史を考えたとき、これは 「ボリス・ゴドゥノフ」や「禿山の一夜」の
R=コルサコフ版と同じことがそのまま言えるわけです。
おそらく二人とも、ムソルグスキーの天才は正当に評価していたと思います。
そのうえで、「このまま演奏されないよりは…」と、優等生ならではの「添削」を行ったのです。

現代では原典版が聴けるかというと、それがそう簡単な問題でもないのです。
現在一般的な原典版というのはラム校訂版なのですが、これとてかなり問題があります。
「展覧会の絵」でいっても、自筆譜と曲名の段階で違うものがあることで推測できると思います。
ムソルグスキーの新全集は1997年に遅れに遅れてやっと第1巻が出版されました。
実はこれからが本当のムソルグスキーを知る時代になるのでしょう。

2012年2月12日日曜日

オペラに対してのサブカルチャー:バレエ

私は小学生の時から西洋クラシックを聴いてきたのですが、
その時から変わらず好きな作曲家というのがあります。

チャイコフスキーなんです、実は。
私を知る人からは「?」という反応を必ずいただきます(苦笑)。
なにしろ、ロマン派が苦手な私が、ロマン派の権化のような存在の中の一人を
こんなにも愛しているわけですから。

さて、最近私はロッシーニ、メルカダンテ、ドニゼッティあたりの
いままで聴いてこなかったオペラをまとめて毎日聴いていたので、
口直しといいますか、他のものを聴きたい気分になったわけです。
そこでチャイコフスキーというわけですが、
彼は自分の事を変わることなく 「オペラ作曲家」として自負・自認していたということです。
客観的にも、「マンフレッド交響曲」を含めた完成した交響曲の数より
実は完成したオペラの方が数が多いんですよね。
「エフゲーニー・オネーギン」ばかり有名というのも残念な話です。
バレエの話に入る前に彼のオペラも少し見てみましょう

Tchaikovsky Edition
実は、こまごま分売のオペラを集めるより効果的ということもあり、
とりあえずこれを挙げてみます。Brilliant Classics お得意の超廉価BOXです。
しかし、これ、侮れないんですよ、内容が。
交響曲なんてどうせ他の音源があるし、とかあまり期待していなかったのですが、
ロジェストヴェンスキー指揮の後期3大交響曲や、
フェドセーエフ指揮の第1番、第3番なんて、
この曲で不可能とも思えるユニークな解釈を聞かせてくれます。

オペラに関しましては、私は地方劇場の演奏って結構好きなのですが、
このBOXでいえば、「エフゲーニー・オネーギン」と「イオランタ」がそうですね。
いかに地元に密着した活動をしているか、できればライブで聴きたかったのですが、
セッションですが、なかなか興味深い演奏です。

ほかのオペラはスヴェトラーノフ指揮の2作以外は歴史的録音です。
歌手をオンマイクにしてのミキシングですが、これが録音の古さより
演奏の素晴らしさをまず感じるもので、本当にお得です。

私はチャイコフスキーのマイナーオペラの中では
「オルレアンの少女」と「チャロデイカ」が好きなのですが、
これはBOX以外の演奏も紹介しておきましょう。

・「チャロデイカ」
Enchantress


「Enchantress」というのは英訳ですね、「Чародейка」が原題で、
「男を惑わす魔性の女(魔女)」くらいの意味です。
カットなしだと4時間近い大作ですが、チャイコフスキーらしくサービス満点で
最後まで飽きることはありません。ただしストーリーもまた彼らしく
どこにも救いのない陰惨なものです。
このディスクはMelodiyaの音源で、上記で紹介した最近復刻されて
ちょっと話題になったカイキンの指揮のものとの聴き比べにはもってこいです。
リマスターが丁寧で、とても聴きやすくなっています。
ロシア的なメロディーが多くあり、陰惨なストーリーの割には
ラスト以外はそうストレスを感じなくて済むのは、4時間という長丁場、ありがたいですね。

・「オルレアンの少女」
ありがたいことに、日本語字幕付き映像がリリースされています。


ジャンヌ・ダルクはさすがにいろいろ音楽作品にも題材になるのですが、
この作品でチャイコフスキーはフランス・グランド・オペラのスタイルを意識的に取り入れて、
バレエもとりいれているのですね。
いかに当時フランス・オペラが無視できない存在だったかわかります。

さて、ここでバレエの話に入るわけです。毎度毎度前置きが長くて済みません。
知っている方は知っている有名な事実(?)ですが、ロシアの上流階級は
フランス文化の影響下にありました。
宮廷ではフランス語もよく使われていたくらいですし、
19世紀のロシアの小説には、フランス語の引用が多いこともご存じの方は多いでしょう。
ただ、劇場だけはイタリア・オペラの牙城で、チャイコフスキーが
「オルレアンの少女」で見せたフランスへの接近というのはその意味でも興味深いのです。

先にチャイ子フスキー彼自身は「オペラ作曲家」としての自認が終生変わらずあった、と
述べましたが、そんな彼がバレエに向かったのはなぜなのでしょうか?

彼は友人の音楽評論家、ヘルマン・ラロッシュに興味深い手紙を書いています。
そこで彼は「オペラの現実的な制約を逃れた幻想的な音楽劇」の可能性を探りたい、
と述べています。これ、なにかを想起させませんか?
例えば現代日本において、実写ドラマにできないことを、一段低いサブカルチャーとされている
アニメーションにおいて表現する、そんな構図に似ていると私は思うのです。

チャイコフスキーの先駆者といえばドリーブがいます。「コッペリア」と「シルヴィア」は
チャイコフスキーもリスペクトしていたそうですね。
いわば、オペラの一部分であったバレエを一つのジャンルとして打ち立てたのです。
そして、その芸術的完成者は疑うことなく、チャイコフスキーでしょう。
「白鳥の湖」におけるある種の悲劇性とドラマは、まだオペラに負けないジャンルを
打ち立てるんだ、という気負いとも読み取れます。
そして「眠れる森の美女」において、おそらく近代バレエの礎が築かれた。
「くるみ割り人形」にはもはやストーリーらしいストーリーはありません。
こうしてみていくと、チャイコフスキーが単に3つのバレエを書いただけでなく、
さまざまな可能性を模索していたことがはっきりとわかると思います。

そして、現代においては音盤の問題がまだ付きまといます。
たとえば「白鳥の湖」は、実際は3枚にしないと完全全曲は収録不可能です。

偉大な例外がプレヴィンとロンドン響による2枚組です。
いまさら語りつくされた演奏をくどくど語りませんが、
SACD化されますのでそれを紹介しておきましょう。
チャイコフスキー:白鳥の湖
問題は、海外でBOX化されているプレヴィンの3大バレエの廉価BOX,
「眠れる森の美女」を2枚に収める関係でいくつかカットしていることです。
その関係もあるのでしょう、日本盤としては、3大バレエのうち、この作品だけ
現役版がありません。
多少高額になってもいいので、カットなし3枚組でCD化される日が来ることを祈ります。

2012年2月2日木曜日

オペレッタにヨコハマ登場

いままでクラシックではいわゆるシリアス系のものばかりで、 オペレッタはあまり聴いてきませんでした。 まあ時間もお金も有限ですから、どうしても優先するものが他にあったことと、 やっぱりこういう軽いものは、という先入観があったのも否めません。

私が大学で尺八を始めて、邦楽の世界に触れていろいろ感性の変化があったのですが、 たとえば地唄には「作もの」という、滑稽な題材を歌詞にしたジャンルがあります。 学生時代は「作もの」は大嫌いだったんですが、丸くなってきたのか、 この滑稽な題材の中に人情味を感じさせるところがだんだん好きになってきまして、 西洋音楽でもオペレッタも聴いてみようかな、という気分になってきたのです。

私はピリオド楽器が大好きですので、最初に聴いたのは、 ミンコフスキ指揮の、ピリオド楽器によるオッフェンバックの2作品、 「美しきエレーヌ」
「ジエロシュタイン公爵夫人」から入りました。


これらは、歌詞だけより映像で観たいなあ、という思いもありますが、
とりあえず音盤でも大変楽しかったです。
オーケストレーションもオリジナルを尊重しているので、
オペラに慣れたものからすると、大変いびつな編成にも思えますが、
それはそういうものなのだと徐々に慣れていくんでしょう。
一応映像も紹介しておきます。
オッフェンバック:喜歌劇《美しきエレーヌ》パリ・シャトレ座2000年 [DVD]
Offenbach: La Grande-Duchesse de Gerolstein [DVD] [Import]
「ジエロシュタイン公爵夫人」のDVDはall region のはずなのですが、
日本のamazonはUSから輸入する関係か、リージョン1になっていますね…。
いちおうジャケット写真ということで。

そういうわけで、オペレッタというと、あまり聴いたことがないなあ、と思っていたのですが、 こんな都合のいいBOXセットがあります。
「Zauber der Operette(オペレッタの魔法)」
これは100枚組で、有名なヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」とか「ジプシー男爵」から、
本当に名前も聞いたことがないような作曲家の作品までさまざまです。
モノラルですが、戦後のドイツ国民を勇気づけるための放送音源で、
さすがにドイツの優秀録音技術、鑑賞には全く支障がありません。

さて、先日届きましたので、最初の作品、
パウル・アブラハム[Paul Abraham(1892-1960)]の
「ヴィクトリアと軽騎兵(VIKTORIA UND IHR HUSAR)」から聴いてみました。

なにしろこのBOXはライナーがドイツ語のみで、英語がかろうじてわかるという程度の
私にはちょっと敷居が高いのですが、いろいろ耳慣れた単語が出てくるのです。
曲が始まってすぐに「リムスキー=コルサコフが云々」とやっていて、
いったいなんだろうと思っていたら、そのうち、
「aus YOKOHAMA,aus PARIS」
と始まって、いよいよ何の話だかワカラナくなってきます。

まあ、作曲者の生没年からすると、日本の横浜はやはり神戸や長崎と並んで国際都市
としてドイツでは認識されていたんだろうということはわかります。


オペラの歌詞でさえ入手は容易ではないですから、
こんなマイナーオペレッタの歌詞は絶望的だろうな、と思いつつ、
このBOXを聴いてどんな発見があるだろうか、と、少し楽しみでもあります。

2012年1月31日火曜日

マイアベーアは今こそ演奏されるべき!

一応クラシック音楽を聴くことを趣味としているものとしては、 以前からずっと感じ、そして避けられぬことがあるとの想いを強くしてきたことがあります。 それはマイアベーアです。
私は、作曲家というより19世紀の超人としてリストがかなり好き、というか傾倒しているのですが、 まあリストのことはいずれ機会を改めるとしまして、リストを通じてマイアベーアにかなり興味を持ちました。
リストは有名無名問わず、音盤のなかった当時において、ピアノ編曲を通じて いろいろな作品を普及させることを使命として自覚していたフシがあり、 当時オペラ界を席巻していたマイアベーアは当然いろいろ編曲があるだけではなく、 オルガン作品の傑作、「『アド・ノス、アド・サルタレム・ウンダム』による 幻想曲とフーガ」 の主題はマイアベーアの「預言者」の中の主題なのです。
リストのオルガン作品全集はCD5枚で収まるので、決して損な買い物ではありません。 ピアノ作品に比べると質の高さが高い次元で保たれているのです。 いくつか紹介しますが、ハーゼルベックのものは作曲当時のオルガンや奏法にこだわったもので、一番おすすめできるものです。


(HMV)

また、ヴェルネによるものは作曲年代順に整然と並べており、これも興味深いものです。ピアノとのドゥオがオマケであるので6枚組です。

(HMV)

まず、このリストの作品に圧倒されました。 このような作品を書かせる霊感を与えたマイアベーアは聴かねばならない、 そう想う気持ちは強まるのですが、何しろ音盤が少ない。 でも、意を決して体系的に聴き始めることにしました。 まず、入手の容易なNAXOSから出ている2つのオペラ、
「セミラーミデ」


(HMV)

「エジプトの十字軍」から。

(HMV)

何しろグランド・オペラの帝王という一般的イメージしか持ち合わせていなかったので、
マイアベーアがドイツ人で、イタリアで修業時代にイタリア風に改名し、
イタリア・オペラをかなり書いているという事実すら知らなかったうえに、
かなりロッシーニの影響が濃いことに驚かされました。
考えてみれば当時のイタリアでそれは不可避のことですね。
なにしろまだレチタティーヴォがセッコだったり、カストラートを使ったりと、
本当にマイアベーアなのかと思いますが、「エジプトの十字軍」はブレイクしたきっかけの作品で、
さすがに聴きごたえがあります。
こちらは、懇切丁寧なライナーと美麗イラスト入りのブックレットでおなじみ、
OPERA RARA レーベルからもリリースされていて、
私が買ったときは4枚組で2千円くらい(当然新品)でしたが、今はどうでしょう?



(HMV)

各地での上演での異稿などもすべて収めているのもいつものOPERA RARA レーベルの流儀。
まずこれではまり始めました。

では、グランド・オペラ4作品にいよいよ入っていこうとして、かなり苦労しました。
正規録音のある「ユグノー教徒」「預言者」も、とっくに廃盤、
「悪魔ロベール」「アフリカの女」は放送音源のものしかありません。
とりあえず、現時点でお勧めできるものを紹介します。

・「悪魔ロベール」
グランド・オペラ第1作。当初は「エジプトの十字軍」 を改作しようとしたようですが、
ロッシーニ(またしても!)の「ウィリアム・テル」 を観て、根本的に初めから
創作しなければならないと痛感し、この作品が生まれました。
リストの編曲のおかげで初めて聴いた時でもなじみのフレーズが多く、
やはり紹介者としてのリストの偉大さをも同時に感じました。

ディスクとしてはいくつかありますが、現時点ではこれでしょう。
 

(HMV)

気を付けていただきたいのは、ジャケットやパッケージは同じなのですが、
この最新のものを買わないと2枚目で音楽が一部欠損していることです。
だからこそ再プレスしたのでしょうが、分かり易く見た目を変えてほしいですよね。
これはパリでの1985年の話題になったプロダクションの放送音源で、
まあ贅沢をいえばキリはないのですが、鑑賞に耐える音質はあると思います。
出演者は豪華の一言で、素直に楽しめると思います。

・「ユグノー教徒」
グランド・オペラ第2作。有名なユグノー教徒の虐殺がテーマで、
壮大な歴史絵巻と、歌詞からだけでも伝わる恐ろしく効果的な舞台効果は、
この作品をもってマイアベーアはマイアベーアになった、ということだと思います。
スタジオ録音が二種類あります。


(HMV)
ボニング盤

サザーランドはあまり好きではなかったのですが、ここではかなり健闘、
といいますか、後述しますが、彼女はこうした作品の方があっているのかもしれません。
Diederich盤はまだ届いていませんが、評判はこちらの方がいいので楽しみです。

 ・「預言者」
 これは間違いなくマイアベーアの最高傑作です!
 恋人を救うために新興宗教の預言者になるが、恋人に大量虐殺を非難され
挙句肝心の恋人は自殺、宗教団体幹部の裏切りの画策、最後には男は火薬庫に
火を放ってすべてを破壊する、という、あらすじだけでもゾクゾクきます。
これは絶対にいつか舞台で観たい!
この第1幕で流れるコラールが「アド・ノス、アド・サルタレム・ウンダム」なんです。
その禍々しさ、不吉さ、心から離れません。
この作品を全曲聴いて、リストがあの幻想曲とフーガをあれほどの大傑作に
書き上げたのは、この作品の持つポテンシャルと釣り合っていることがわかりました。
リストもすごいし、マイアベーアもすごいんですよ。
現在唯一のスタジオ録音はこれです。

同じものなのですが、登録上どちらか安い方はその時々で変わると思いますので、
両方載せておきます。

 「アフリカの女」
グランド・オペラ第4作にして最後の作品。
マイアベーアは上演を観ることはありませんでした。
この作品は台本が前3作よりかなり落ち、それは当時から指摘されており、
結局マイアベーアが忘却の彼方へと沈むきっかけになったともいわれます。
ですが、音楽自体は決してスポイルされていませんので、そこは大丈夫です。
ドミンゴが出ているDVDもあるのですが、リージョンコードの問題で
どれを紹介してよいかわからず、後日ここは編集して紹介します。

とりあえず音盤を。


(HMV)

原典主義者ムーティらしく、オリジナル5幕仕立て(上演では3幕仕立てにされることが多い)。
どうせならフランス語歌唱ならもっとよかったのですが、ここではイタリア語歌唱です。
イタリアで活躍した作曲家がパリで上演したオペラではこの2重原典は避けられない運命です。
どちらも原典版なんですね。不思議な感覚ですが。

さて、グランド・オペラ4作以外に、どうしても紹介したいオペラが一つありますので、それを。
Meyerbeer: Dinorah / James Judd, Philharmonia Orchestra

(HMV)

この作品はオペラ・コミックなのですが、その旋律美にかけては追随するものはありません。
無名作品ですが、ぜひ聴いていただきたい名作です。

そろそろ総括しましょう。
マイアベーアの行く先々でロッシーニが存在しました。
そしてマイアベーアに不可避の影響を与えたのです。

ロッシーニのセリアが再評価されだしたのはそんなに昔の事ではありません。
ごく最近の事です。
というのは、ヴェルディやワーグナーなどに最適化されたドラマティックな声では
ロッシーニは歌えないのです。
古楽唱法から時代を順行してロッシーニ時代に合わせると、自然に歌えるのです。
古楽運動の副産物といってよいと思います。
そしてこれは、ロッシーニから多大な影響を受けたマイアベーアにも当てはまるのは当然です。
二人とも、初期にはカストラートを使う作品があることが象徴的ですね。

適切な歌唱法を身に着けた歌手が増えた現代でこそ、
ロッシーニはもちろん、マイアベーアは適切に上演できると思います。
「今更」ではないのです!今こそマイアベーアは演奏される環境が整っているのです!