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2014年9月15日月曜日

もしかしたらあったかもしれないグラズノフ受容

セレブリエール指揮によるグラズノフの交響曲・協奏曲全集を買いました。


(Amazon) (HMV)

実は目的は協奏曲全集のほうで、小規模協奏作品をそろえるには
これが一番手っ取り早かったからです。

グラズノフは一応出来る限り全てのジャンルを聴いているのですが、
イメージといいますか、いまひとつつかみどころが無いのです。
ピアノ作品全集や弦楽四重奏曲全集、管弦楽作品も出来る限りいろいろ
聴いているのですが、「個性」がどこにあるのか、非常にわかりにくいのです。

私は好きな作曲家か、あるいはこうした「よくわからないな」という作曲家か、
そのどちらかに当てはまると徹底して聴きたくなる傾向にあるようで、
グラズノフは後者に分類され、できる限りの曲の種類を聴くようにしています。

さて、このBOXを少しずつ聴いていたのですが、
ちょっと驚いたのはフィルアップの「海」を聴いたときでした。
こんなに面白い曲だったかな?と耳が反応しました。

グラズノフの評価というのは、「折衷主義」という言葉でよく表されていますが、
どうも、ロシア的要素にこだわりすぎないほうがいいのではないか、と思ったのです。

管弦楽作品に関して言えば、やはりその巧みな管弦楽法は特徴であり、
チャイコフスキーが西欧旅行中にチェレスタを知り、
「くるみ割り人形」の「金平糖の精の踊り」に使用しようと心に決めてロシアに
チェレスタを手配する準備をするときに、念を押して注意したことは、
「私が作品で使うまではロシアの作曲家には知られないように厳重に注意すること。
特にリムスキー=コルサコフとグラズノフの二人には絶対に知られてはならない。」
ということでした。
逆に言えば管弦楽法に関してこの二人を非常に高く評価していたとも言えます。

グラズノフの交響曲はそこそこ録音も実演も少しずつではありますが増えている印象ですが、
その他の管弦楽作品はまだまだ、ということも感じます。
ロシアの演奏家はがんばっていますね。

スヴェトラーノフ御大は交響曲だけでなく、そうした管弦楽作品を
かなりの数録音していますが、現在入手困難です。残念。

かなり前置きが長くなりましたが、セレブリエール指揮による「海」に戻ります。
これはグラズノフ初期の作品ですが、すでに完成度はかなり高いです。
15歳であの「交響曲第1番」を完成させているのですから、不思議ではないのですが。
セレブリエールの演奏は、交響曲全体にも言えることですが、
無国籍風といいますか、ロシア的な要素をあまり強調していません。
これが結果的に面白い響きを生み出しているように感じます。

たとえば、R=シュトラウスの演奏に関して、ベームやライナーやケンペあたりは、
音楽の内容にも意味を見出そうとした演奏をしています。
言い方は悪いですが、カラヤンの場合は、徹頭徹尾響きの華麗さを追求する方向です。
いや、もちろんそれだけではないですが、これはかなりエポックメーキングだったと思います。
「そうか、オーケストラの華麗な響きに酔いしれるという楽しみ方もありだ!」ということです。

セレブリエールによるグラズノフの「海」を聴いたとき、そのことを想起しました。
芸術的感銘とか音楽的な深遠とか、そういったことはとりあえず置いておくと、
グラズノフの華麗なオーケストレーションに純粋に浸るという楽しみもあるのではないかと。

グラズノフの交響曲以外の管弦楽作品はロシア系以外の演奏の録音は極端に少ないです。
ですから結果的に「ロシア的ななにか」を求めた真面目な演奏が多くなっているわけです。
それは大切なことですけれども、グラズノフの楽しみ方の一面を奪っているかもしれない。
カラヤンがR=シュトラウスの交響詩演奏で行ったような一種の開き直りがあると、
また違った可能性があるのかもしれない、と思ったのです。 
もし、往年のカラヤン/ベルリン・フィルがグラズノフの管弦楽作品を取り上げたら、
グラズノフの現在の位置が大きく変わっていた可能性もあるのではないかとさえ思います。

ただ、当時としては演奏会にせよ録音にせよ、グラズノフの知名度では
OKは出なかったでしょうから、本当に”IF”でしかないのですが。
ただ、当時の音楽界の状況を考えれば、カラヤンが取り上げていたら、
とりあえず聴いてみるか、という人々も一定数存在したと思いますし、
その中の何割かは「結構面白いな」と思ったかもしれない、ということです。

ただし、私が感じたのはまだここまでです。
華麗にオーケストラを響かせる演奏に身をゆだねることは心地よいのは確かです。
ただ、聴き終えた後に、「どういう曲だった?」と尋ねられると、答えに窮します。
グラズノフが本格的に受容されるにはまだ何かが足りないでしょうし、
私もそれを求めて今後もグラズノフを聴いていくのだと思います。

2012年4月9日月曜日

「型を破る」ということ

最近、ラインベルガーの室内楽作品をまとめて聴いていたのですが、

ラインベルガー室内楽曲全集


(Amazon)(HMV)
アカデミズムの権化のように言われる彼が
最初からそうであったわけではないことを
再発見したというところがありますとともに、ちょっと悲しみも感じます。

ラインベルガーはとにかく多作家で、
作品番号がついているものだけで200ほどある上に、
たとえば正式な弦楽四重奏曲2曲以外にも12曲も習作があるなど、
全貌把握は極めて難しい人なのですが、
オルガン作品全集や、作品番号付き室内楽作品全集はCDは出ていますし、
最近ピアノ作品全集も出ましたので、
改めてちょっと聴いていたところです。

(Amazon)(HMV)

彼は1866年には「ワレンシュタイン」という標題交響曲
(原題は「大オーケストラのための交響的音画」)を書いていまして、
かなりの絶賛を博したとあります。1時間ほどの大作です。
このCDに含まれています。

(Amazon)(HMV)
シラーのこの作品はすでにスメタナが「ワレンシュタインの陣営」という交響詩を書いていますが、
実はラインベルガーの上述の作品のスケルツォ楽章も「ワレンシュタインの陣営」と題され、
その上、独立した交響詩として演奏してよい、として実際にその楽章だけ楽譜を分売するなど、
きわめて挑発的なことをやっています。

この当時はハンスリックの標榜するいわゆる「絶対音楽」「標題音楽」という
論争の最中ですので、当然ラインベルガーの作品は「標題音楽」という見方をされたのですが、
面白いことに、1877年のコンサートガイドでは、「絶対音楽としてもみなしうる」とされ、
両陣営から評価されていたということですね。

ラインベルガーの「ワレンシュタイン」は上述のとおりCDも出ていますので、
聴くこともできますが、演奏がちょっと難ありなので、評価が難しいです。

ちょっと前置きが長くなったのですが、転換点となった作品が
ピアノ三重奏曲第1番(1862年、改訂1867年)ではないかと思うのですね。
改訂された1867年というのは「ワレンシュタイン」の初演の年にあたります。
このピアノ三重奏曲、表面的にはスケルツォ楽章を含むなんということのない
4楽章構成なのですが、聴いていただけるとお分かりになると思うのですが、
かなりの型破りな作品です。先入観を抱かないでいただきたいので、
とりあえずそのことだけを書いておきます。
批評家によっては、ベルリオーズの影響を指摘する人もいます。

さて、件のピアノ三重奏曲第1番が成功かというと、否でしょう。
「型破り」な作品を書くにはラインベルガーはまじめ過ぎたか、
人として正常だったのだと思います。
若い彼が次にとった行動が「標題交響曲」という道ですが、
当時すでに指摘されていた通り、それは標題がなくてもいいものであったわけです。

年を経るにしたがって、ラインベルガーはアカデミックな書法を
突き詰めるような道に進んでいきますが、これは若いころの野心作を
聴くに、正解だったと思います。
教育者としても名を成した彼は、生徒に「フーガ師」などとあだ名をつけられたりしたようで、
型を破ろうとしてなしえなかった彼にはきついあだ名だったでしょうね。

メンデルスゾーンのオルガンソナタに比してラインベルガーのオルガンソナタは
「基本的に前奏曲とフーガ+αの三楽章構成であって、保守的」と断じたことがあるのですが、
ラインベルガーはあえてその道を選んだ、ということなのですね。
「型」の中で多様性を発揮しよう、というその作曲姿勢は、
バロック時代や古典派時代の作曲家に通じるものがあります。

R=シュトラウスがラインベルガーを語った言葉があります。

「彼は作曲家だ。毎日6時から5時まで作曲をする。
私はインスピレーションがわいたときしか仕事ができない。」

ロマン派時代の作曲家ですが、ラインベルガー作品を鑑賞するには、
ハイドンを鑑賞するときのような姿勢が必要なのではないかと、ふと思ったのでした。

作曲にしても、演奏にしても、「型を破る」ということがどういうことか、
自覚をすることは大切だな、と再度確認した気がします。

2012年3月6日火曜日

忘れがたき原体験:ワルター指揮の「大地の歌」

誰しも子供だった経験があるというのに、大人になるとなぜか「子供に分かるわけがない」とか
なにか上から目線になるのはなぜなんでしょうね?

私の成人してからの経験から言っても、子供の感受性は恐るべきものがあると思います。
少なくとも、「世評」とか「定評」とか念頭にない分、大人よりはるかに本質を見極める。
練習用の三味線で練習していたら「今日は変な音だね」といわれた知人、
子供は尺八でも地無し管の音を好んだりするという経験が私もあります。

だから、邦楽教育でも明治以降のヘンな洋楽っぽい曲を
邦楽器で演奏させるのはもってのほかだと思うのです。
すくなくともそんな曲を喜んで演奏しているのは大人だけです。聴いているのもね。
子供は本質を見極める目は大人より鋭いのだから、古典をしっかり聞かせたり、
演奏させたりするべきだと思います。曲が難しいというのは、
これまた子供の恐るべき適応能力をなめた考え方です。
洋楽器では結構な難曲を弾く子供なんていくらでもいることを思い出しましょう。

さて、なんでこんな話をしたかというと、ワルター指揮のマーラー作曲「大地の歌」、
これが私の原体験の一つなんです。
小学生の時、小学生なりにいろいろ悩んでいたことがあって、
マーラーのようなちょっと病んだ音楽が好きでした。
誕生日やクリスマスにカセットを買ってもらってちょっとづつ聴いていました。
なにしろ曲が長いし、FMでもなかなか放送しなかったので
(まだいわゆる「マーラーブーム」前でした)、
こういう方法しかなかったんですね。

で、友人がマーラーのLPを親が持っているといってくれまして、
そのときいろい聴きました。なかでもワルターの「大地の歌」は格別の印象を受けました。
子供は子供なりにいろいろ感じるものなんですよね。

で、大人になり、ワルターの「大地の歌」には数種類あることを知りました。
あの時聴いていたのはどれだったのか、ちょっとわからないだろうなと思っていました。


これだったんですよ。驚くべきことに聴いた瞬間に わかりました。間違いなくこれです。

子供時代はいわば毎日が新体験の連続で、時間の経過を長く感じ、
経験を重ねた大人は、時間の経過を早く感じるといいます。
この演奏を聴いて小学校の頃、いろいろ悩んでいたり考えていたり、
日々過ごしていたことまでいろいろとよみがえってきました。
そしてそのことを思い出し、やはり子供はあなどれないと。
まあ、今の私が成長していないだけなのかもしれませんが。
子供の感受性おそるべし、と我が事ながら感じています。

2012年2月27日月曜日

ムソルグスキー受容:天才と優等生

私がクラシック音楽を聴くきっかけになったのは、
ピアノ版(断じて管弦楽編曲版ではない!)の「展覧会の絵」でした。
多分、この作品の、ピアノ原典版でなければ、ここまでクラシックにはまることはなかったでしょう。

ムソルグスキーは間違いなく天才です。
ただ、天才にありがちなことに、規則の類からかなり外れています。
19世紀の当時にあって、それを嘆いた作曲家は少なくなかった(才能を認めているからこそ)。
友人のR=コルサコフがいろいろと余計なことをやっているように見えるのも、
それは現代の視点から、もはやムソルグスキーの原典が
当時ほどにはいびつに感じられなくなってきているからなのです。

有名なところでは、代表作のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」。
ムソルグスキー自身の原典でも2つの版(1869年稿と1872年稿)が存在します。
そして困ったことに別の曲といえるほどに音楽が違い、
ゲルギエフのように両稿を全曲録音するやり方、
ロストロポーヴィチのように重複しない音楽はすべて演奏するやり方、
アバドのように、1872年稿をベースに、筋に一貫性を保持したままで済む部分は
1869年稿からももってくるやり方、とさまざまな対処が行われています。
そのうえにさらにR=コルサコフ改訂版が存在するわけです。

R=コルサコフ版は確かにムソルグスキーのオリジナルと比較すると
かなり凡庸で、原典版を聴きなれてから勉強のために聴いた私には
とても辛い思いをしてやっと全曲を聴いたというのが正直なところでした。
ただ、この「凡庸さ」が、この作品を普及させるために必要だったことは疑うべくもないのです。

そもそもなぜムソルグスキーが第2稿を書いたかというと、
検閲で「女性の見せ場がほとんどなくオペラとして上演するのにふさわしくない」
というわけのわからないクレームがついたからでした。
ただ、検閲でひっかからなくても、第1稿をこの当時上演してもとても成功はしなかったでしょう。
そこで第2稿ではいわゆる「ポーランドの場」を挿入して、グランド・オペラの様式に
近づけようとする努力を見せ、それはそれで成功していると思います。
ただしムソルグスキーは第2稿では、作品途中で主役のボリスを殺してしまうのです!
そして、そのあとの混乱がロシアの不幸を表すかのようで、
何とも言えない余韻を残し、この作品が傑作たるゆえんとなっていると思うのですが、
R=コルサコフはそれは当時の基準としてはあまりにも前衛的すぎると考えたのでしょう、
彼の改訂版ではボリスの死で幕を閉じるやり方に変え、
正真正銘のグランド・オペラとなっている、といえるでしょう。

そもそもバスが主役のオペラはそんなに多くありません。
私も今すぐに思い浮かぶのはマスネの「ドン・キショット(ドン・キホーテ)」くらいです。
ロシアのバスの大歌手・シャリアピンは当然「ボリス・ゴドゥノフ」を当たり役にしていました。
その後もロシアにはボリス・クリストフ等名歌手が多く生まれ、
「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続けました。
そこでは明確にバス歌手が主役であるというR=コルサコフ版の需要は大きかったのです。
そして結果的に「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続け、オペラ劇場の必須演目の一つとして
確固たる地位を築いたのです。

さて、ここでみたようにR=コルサコフ版の果たした役割も疑う余地なく大きかった…。
そして、ムソルグスキーのくすんだ独特の管弦楽配置と違い、
管弦楽の魔術師の一人であるR=コルサコフは、さすがに見晴らしの良い、
お手本のような管弦楽配置をしています。

この辺りは、「禿山の一夜」 の二人の版を比較するとよくわかると思います。
きらびやかでディズニー映画のようなR=コルサコフのそれと、
より土俗的で、今にも何かこの世ならぬものが現われてきそうな
ムソルグスキーのそれは、全く別の作品です。
どちらを好むかはやはり好みなのでしょう。

それは 「ボリス・ゴドゥノフ」でも同じです。R=コルサコフ版は私は耐えられないですが、
好きな人まで否定するつもりはないです。それなりの歴史的役割を担ってきた実績もあります。

そして「展覧会の絵」。これもラヴェルを代表格としてさまざまな管弦楽版 が存在します。
お分かりだと思いますが、私はラヴェルの編曲は好きではないです。
あれは近代フランスの管弦楽作品であって、断じてロシアの、ましてや
ムソルグスキーの作品ではないと思います。
ただ、受容史を考えたとき、これは 「ボリス・ゴドゥノフ」や「禿山の一夜」の
R=コルサコフ版と同じことがそのまま言えるわけです。
おそらく二人とも、ムソルグスキーの天才は正当に評価していたと思います。
そのうえで、「このまま演奏されないよりは…」と、優等生ならではの「添削」を行ったのです。

現代では原典版が聴けるかというと、それがそう簡単な問題でもないのです。
現在一般的な原典版というのはラム校訂版なのですが、これとてかなり問題があります。
「展覧会の絵」でいっても、自筆譜と曲名の段階で違うものがあることで推測できると思います。
ムソルグスキーの新全集は1997年に遅れに遅れてやっと第1巻が出版されました。
実はこれからが本当のムソルグスキーを知る時代になるのでしょう。

2012年2月12日日曜日

オペラに対してのサブカルチャー:バレエ

私は小学生の時から西洋クラシックを聴いてきたのですが、
その時から変わらず好きな作曲家というのがあります。

チャイコフスキーなんです、実は。
私を知る人からは「?」という反応を必ずいただきます(苦笑)。
なにしろ、ロマン派が苦手な私が、ロマン派の権化のような存在の中の一人を
こんなにも愛しているわけですから。

さて、最近私はロッシーニ、メルカダンテ、ドニゼッティあたりの
いままで聴いてこなかったオペラをまとめて毎日聴いていたので、
口直しといいますか、他のものを聴きたい気分になったわけです。
そこでチャイコフスキーというわけですが、
彼は自分の事を変わることなく 「オペラ作曲家」として自負・自認していたということです。
客観的にも、「マンフレッド交響曲」を含めた完成した交響曲の数より
実は完成したオペラの方が数が多いんですよね。
「エフゲーニー・オネーギン」ばかり有名というのも残念な話です。
バレエの話に入る前に彼のオペラも少し見てみましょう

Tchaikovsky Edition
実は、こまごま分売のオペラを集めるより効果的ということもあり、
とりあえずこれを挙げてみます。Brilliant Classics お得意の超廉価BOXです。
しかし、これ、侮れないんですよ、内容が。
交響曲なんてどうせ他の音源があるし、とかあまり期待していなかったのですが、
ロジェストヴェンスキー指揮の後期3大交響曲や、
フェドセーエフ指揮の第1番、第3番なんて、
この曲で不可能とも思えるユニークな解釈を聞かせてくれます。

オペラに関しましては、私は地方劇場の演奏って結構好きなのですが、
このBOXでいえば、「エフゲーニー・オネーギン」と「イオランタ」がそうですね。
いかに地元に密着した活動をしているか、できればライブで聴きたかったのですが、
セッションですが、なかなか興味深い演奏です。

ほかのオペラはスヴェトラーノフ指揮の2作以外は歴史的録音です。
歌手をオンマイクにしてのミキシングですが、これが録音の古さより
演奏の素晴らしさをまず感じるもので、本当にお得です。

私はチャイコフスキーのマイナーオペラの中では
「オルレアンの少女」と「チャロデイカ」が好きなのですが、
これはBOX以外の演奏も紹介しておきましょう。

・「チャロデイカ」
Enchantress


「Enchantress」というのは英訳ですね、「Чародейка」が原題で、
「男を惑わす魔性の女(魔女)」くらいの意味です。
カットなしだと4時間近い大作ですが、チャイコフスキーらしくサービス満点で
最後まで飽きることはありません。ただしストーリーもまた彼らしく
どこにも救いのない陰惨なものです。
このディスクはMelodiyaの音源で、上記で紹介した最近復刻されて
ちょっと話題になったカイキンの指揮のものとの聴き比べにはもってこいです。
リマスターが丁寧で、とても聴きやすくなっています。
ロシア的なメロディーが多くあり、陰惨なストーリーの割には
ラスト以外はそうストレスを感じなくて済むのは、4時間という長丁場、ありがたいですね。

・「オルレアンの少女」
ありがたいことに、日本語字幕付き映像がリリースされています。


ジャンヌ・ダルクはさすがにいろいろ音楽作品にも題材になるのですが、
この作品でチャイコフスキーはフランス・グランド・オペラのスタイルを意識的に取り入れて、
バレエもとりいれているのですね。
いかに当時フランス・オペラが無視できない存在だったかわかります。

さて、ここでバレエの話に入るわけです。毎度毎度前置きが長くて済みません。
知っている方は知っている有名な事実(?)ですが、ロシアの上流階級は
フランス文化の影響下にありました。
宮廷ではフランス語もよく使われていたくらいですし、
19世紀のロシアの小説には、フランス語の引用が多いこともご存じの方は多いでしょう。
ただ、劇場だけはイタリア・オペラの牙城で、チャイコフスキーが
「オルレアンの少女」で見せたフランスへの接近というのはその意味でも興味深いのです。

先にチャイ子フスキー彼自身は「オペラ作曲家」としての自認が終生変わらずあった、と
述べましたが、そんな彼がバレエに向かったのはなぜなのでしょうか?

彼は友人の音楽評論家、ヘルマン・ラロッシュに興味深い手紙を書いています。
そこで彼は「オペラの現実的な制約を逃れた幻想的な音楽劇」の可能性を探りたい、
と述べています。これ、なにかを想起させませんか?
例えば現代日本において、実写ドラマにできないことを、一段低いサブカルチャーとされている
アニメーションにおいて表現する、そんな構図に似ていると私は思うのです。

チャイコフスキーの先駆者といえばドリーブがいます。「コッペリア」と「シルヴィア」は
チャイコフスキーもリスペクトしていたそうですね。
いわば、オペラの一部分であったバレエを一つのジャンルとして打ち立てたのです。
そして、その芸術的完成者は疑うことなく、チャイコフスキーでしょう。
「白鳥の湖」におけるある種の悲劇性とドラマは、まだオペラに負けないジャンルを
打ち立てるんだ、という気負いとも読み取れます。
そして「眠れる森の美女」において、おそらく近代バレエの礎が築かれた。
「くるみ割り人形」にはもはやストーリーらしいストーリーはありません。
こうしてみていくと、チャイコフスキーが単に3つのバレエを書いただけでなく、
さまざまな可能性を模索していたことがはっきりとわかると思います。

そして、現代においては音盤の問題がまだ付きまといます。
たとえば「白鳥の湖」は、実際は3枚にしないと完全全曲は収録不可能です。

偉大な例外がプレヴィンとロンドン響による2枚組です。
いまさら語りつくされた演奏をくどくど語りませんが、
SACD化されますのでそれを紹介しておきましょう。
チャイコフスキー:白鳥の湖
問題は、海外でBOX化されているプレヴィンの3大バレエの廉価BOX,
「眠れる森の美女」を2枚に収める関係でいくつかカットしていることです。
その関係もあるのでしょう、日本盤としては、3大バレエのうち、この作品だけ
現役版がありません。
多少高額になってもいいので、カットなし3枚組でCD化される日が来ることを祈ります。

2012年2月5日日曜日

学校での邦楽教育の教材と魔術師・松平頼則氏

学校教育で邦楽器の教育が義務付けられてしばらくたちますが、
学校の音楽教師が大体においてまっとうに演奏できないのですから、
これはなかなか難しい問題なのです。

みなさんご存じの「さくら」は、幕末に箏の手ほどき曲として作られたもので、
その意味では、近世邦楽の音階である、いわゆる都節音階に対しては、
素晴らしい教材として現在でも使えると思います。

さて、邦楽といってもいろいろあるわけですが、雅楽は厳密には「邦楽」には入らない
そうですが、教育としてはやっておくべきものだと思います。
しかし手ほどき曲が問題になってくるのですね。

雅楽の手ほどき曲というと「五常楽」が使われることが多いようです。
実際にこういうDVDも出ていて、独学できるようになっています。
篳篥・笙・龍笛・五常楽にチャレンジ 雅楽入門 [DVD]

しかしこれは近世邦楽でいえば、例えば地歌ならいきなり「黒髪」から入るようなものです。
全般的に邦楽には極端に手ほどき曲が不足しているのです。
最初からコンサートピースを習うことができるのは、良いことでもありますが、
初修の曲だからとおろそかに考える人も出てくるのが問題です。

さて、「君が代」は皆さんもご存知ですね。
いろいろ思想的なことはとりあえずおいておいて、旋律としてこれは、
壱越律旋の手ほどきとしてうってつけなのです。
君が代演奏拒否の教師が理由として、
「雅楽音階の曲を西洋和声で平均律のピアノでは演奏したくない」ということを挙げていて、
これは確かに一理あるんですよ。

そこで、歌詞の問題もクリアする方法、また邦楽器教育の一つの方法として、
君が代を雅楽器で演奏する教育を行うというのはどうかと思うのです。
おそらく、雅楽音階においての手ほどきとして、近世邦楽音階における「さくら」と同じくらい
優れた教材であると私は考えます。
皆さん歌詞の事で議論しているのでしょう?よくわかりませんが。
でも旋律としてこんなすばらしい教材を使わないのはもったいない。
唄うのが嫌な教師・生徒は雅楽器を演奏すればいい。
割と真面目な提案です。

その後に「五常楽」や「越天楽」に進めば、自然に上達することでしょう。

雅楽特選
ところで、越天楽を題材に西洋音楽の話もしておきましょう。
まず、「越天楽」は「渡物」といって、3つの調子のものが存在します。
雅楽「越天楽」三調
このCDは非常に素晴らしい音盤で、その3つの調子(平調・盤渉調・黄鐘調)の
「越天楽」がおさめられているだけでなく、平調「越天楽」では「残楽(のこりがく)」という
特殊な演奏形態で演奏されています。
さらにお得なことに、「五常楽」も収められているのです。
「雅楽を何か聴いてみたい」という方には、まずこれをお勧めしたいです。

さて、私が個人的に峰崎勾当に並ぶ日本の大作曲家と考えているのは、
松平頼則(まつだいらよりつね)氏です。
「松平」という姓からわかるとおり、そういう家柄の人で、
音列による西洋作曲技法と、雅楽の要素を魔法のように融合させた
とんでもない技法によって、多くの作品を残しています。
「越天楽」と関係するのはこちら。
松平頼則:ピアノとオーケストラのための主題と変奏/ダンス・サクレとダンス・フィナル/左舞/右舞
この「主題と変奏」はカラヤンが指揮した唯一の日本人作品としても有名ですが、
その主題は「越天楽」、しかも普段よく聞く平調のものではなく、盤渉調のものです。
「越天楽」はもともと盤渉調だったといわれ、雅楽に関してとんでもない知識をお持ちだった
松平頼則氏のこと、これは意図的なものでしょう。
この作品はまだ氏の本当に初期の作品で、雅楽を解体し、音列と融合して
再構築するのちの作風はまだ出ていませんが、それだけに初めて聴くにはなじみやすいでしょう。
松平頼則作品集
ここに収められている「春鴬囀」 はむろん、雅楽四大曲の一つのことです。
雅楽「春鶯囀(しゅんのうでん) 」はこちら。
峰崎勾当以来の大作曲家ということは、西洋音楽作曲家としては間違いなく
日本最大の作曲家でありますから、氏の音楽を正当に評価するためにも、
雅楽の教育というのは大切ではないかと思います。

追記:こちらに新しい記事もあります
野平一郎による松平頼則:ピアノ作品選集