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2019年2月4日月曜日

細川俊夫氏の「観想の種子」

「観想の種子」を久しぶりに聴いて、
昔気が付かなかった観点から捉えることができたような気がしたのでメモ。



  (Amazon) (HMV)

声明と雅楽という組み合わせだけの概要だと
邦楽になじみがないとカクテルみたいに思われるでしょうが、
そもそも声明の理論的基礎は雅楽のそれなので(少なくとも音階構造に関して)、
相性としては悪くはないのです。

当時気が付かなかった部分と言うのは、「雅楽」というあまりにも包括的なジャンル区分の中で、
国風歌舞、つまり日本固有の音楽に限定している、ということです。

ここで使われている声明は天台声明であるということも重要です。
確かに一番メジャーである、ということはありますが、
天台声明が中世の邦楽、特に細川氏の創作とのかかわりから言えば、
能楽へ与えた影響の強さ、ということを考えた場合、模索期であった80年代に
こうした取り組みを行ったことは興味深いことではあります。

西洋音楽の作曲家が取り組む場合、渡来楽が中心で、
国風歌舞はまず避けられています。
彼らも慎重ですので、理論体系が洋楽に劣らず整備されているところで仕事をするのは
誠実さの現われともいえると思いますし、当然かなと思うのです。
そして、逆に考えると、理論は存在するものの、西洋音楽的なものとあまりに異質で、
アプローチとしては極めて困難な中世以降の邦楽全般が、
あまり素材にならない理由でもあります。

これは、語弊を恐れずに言えば、
「ノヴェンバー・ステップス」と「秋庭歌一具」の完成度の違いに関わっています。
前者では、図形楽譜という形で問題を先送りすることで近世邦楽にアプローチしていますが、
結局何も解決しているわけではないですし、厳しいことを言うと逃避ですから、
やはり中世以降の邦楽を西洋音楽的創作として考える困難は明らかでしょう。

そこで改めて「観想の種子」を考えると、
成功しているかどうか、というのはともかくも、
中世以降の邦楽への構造的アプローチとしての意図は極めて明快です。
音楽を現代からの逆行で考えることが横行しているので忘れられがちですが、
構造的に把握しようとするなら順行で追うのが正攻法です。

上述したように、中世、というくくりにおいて、論理的に考察するなら、
入り口として悪くない、というよりもこれしかないでしょう。
私自身、啓示を受けた感覚があります。

細川氏はマンダラの読み解き方から形式的な構造のヒントを得た、と述べていますが、
音楽的アプローチに関しては慎重な言い回しです。
そもそもマンダラの概念は、雅楽の音楽思想と共通する部分が大きいので、
国風歌舞の一具のような構成になるのは正攻法でもあります。

「中世のヨーロッパの作曲家が、グレゴリオ聖歌を基礎として、
ミサ曲やモテットを書いた態度に似ている。」

ここでの趣旨から外れるので、古楽的には突っ込みませんが、
言いたいことはわかるのでここに引用します。

総合的に考えると、ここに現出しているのは「今様」です。
梁塵秘抄には、今様の音楽理論および楽譜もあり、
岩波の文庫でもきちんと翻刻されているので、邦楽関係者以外には貴重だと思いますが、
実のところ、今様の理論考察はさっぱり進んでいません。
なぜなのか、というと、実はこれがポイントかも知れないのですが、
当時の同好の仲間が理解できれば十分だったからだと思います。
有体に言えば、現代人にはわかりません。
雅楽、というジャンル区分は本当に包括的過ぎるのですよ。

敦煌の楽譜を元に芝祐靖氏が復元を試みたりしていますが、あれは中国の音楽、
雅楽的区分で言えば、理論整備の万全な渡来楽だからです。
それでも、当時そのまま、とはいかないですが、
西洋音楽で中世の音楽を演奏する程度には可能です。
今様は、国風歌舞で最新ジャンルですし、そもそも流行であって
残す必要はなかった、ということがあります。
梁塵秘抄は、当時意味があればそれで十分だったのでしょう。

では、「観想の種子」が今様というのはどういうことだ?となるかもしれませんが、
要するに当世風最新の国風歌舞、という本来の意味です。
雅楽からフィードバックして得られたもので創作を行うというのでもなく、
新たなアプローチで伝統から乖離する、というのでもない。
そう、国風歌舞を現代において創作したのですよ、文字通り。
ですから、まさに「今様」なのです。
これは上記引用の文脈とも一致しますので、
それほど大きくかけ離れた見方ではないと思います。

「リアの物語」に到る過程において、細川氏は確かに何かの課題意識があり、
それは今考えると、なるほど、となる部分があります。
当時には、こうした見方は出来なかったです。

2019年1月27日日曜日

細川俊夫氏のオペラ「海、静かな海」

 買ってあったDVDを鑑賞。



 (Amazon) (HMV)

細川氏の「リアの物語」をNHKで観た時は本当に衝撃で、それから出ている音盤はことごとく蒐集していますが、最近の氏の変化に関していろいろと考えるところがあります。

音楽において後進国であるドイツが、自分の有利になるように、あたかもバッハ以前の音楽が原始的であったかのような(しかも、長い歴史上でピンポイントで短期間優位だった特定ジャンルがあたかも西洋音楽本流であるかのような)イメージ戦略に成功した結果、ドイツ教養主義の影響がいまだに残っている日本の一部の音楽愛好家には、その呪いの効果が持続しています。

それはともかく、バロック時代、きちんと後進国である自覚のあった彼らは、色々模索していました。結果的に有効と考えたのはルター派のコラールだったのは間違いないでしょう。
スウェーリンクが一応宗教作品を主題にした変奏曲に先鞭をつけたとはいえ、大きく発展させ、多様化させたのは間違いなくシャイデマンであり、スウェーリンクの偽作の多くが実はシャイデマンが作者だったことなども含め、現在では名実ともにシャイデマンが北ドイツオルガン楽派の祖とされていますし、あるいはその関連として、ドイツ独自のカンタータも発展したわけです。
もちろん、プロテスタントであったことが重要な原因です。会衆が礼拝に参加する。そして歌う。
それなくしては、オルガン作品も宗教作品も成り立たなかった。ドイツはドイツの独自性をそこに見出し、それを基盤に各国の音楽を吸収したわけです。

日本はどうか。私が西洋音楽で好むのは、なぜスラブ語圏や東欧や北欧だったりすることが多いのかといいますと、別にひねくれているわけではなく、邦楽に関わっている人間として、民族音楽との関わりを一応真剣に考えているのです。そうした場合、グリーグ以降の「辺境」の音楽は非常に刺激される部分が多いのです。そうした観点がないと単に変人に見えるのでしょうけれども違うのですよ(汗)。 グリーグの前衛的な試みは国民楽派から二十世紀の周辺地域の作曲家に多大な影響を及ぼし、それは細川氏とて例外では無いとさえいえます。グリーグに関しては後日項目を改めます。

で、細川氏。彼の80年代の音楽はラッヘンマンの影響も強かったですが、結果的には上手く作用していたところもあるかもしれません(あくまで邦楽関係者視点)。
断章Ⅰは、三曲合奏でありながら、伝統と隔絶されていて、最初は、まあ洋楽の作曲家ならこんなものか、と思っていましたが、それからしばらく、彼は確かに日本文化を意識していましたし、それが安直な転写でないところはいいのかもしれない、と考えたとき、断章Ⅰへの考え方は変化しました。


細川氏は「意図的な誤読」という表現を遣っていますが、創作者として、とくに西洋音楽の作曲者であることを考えた場合、とても適切な姿勢だと思いました。そして、件の「リアの物語」はある意味、ゴールともいえたのかもしれません。完璧といってよかったと思います(あくまで邦楽関係者視点)。


だからこそ、彼の音楽は変わり始めたのかもしれません。当面の目標を達成してしまったのですから。
ただ、どうも彼が最近やっていることは、グリーグから国民楽派への先祖がえりに思えます(しつこいようですが、あくまで邦楽関係者視点)。音楽的素材というより、音楽外の素材で国民的アイデンティティを表明しつつも、音楽的にはもう純粋に西洋化へと向かっているような。管弦楽法は非常に洗練されてきていますが、それは、あえていままでやらなかっただけなのかもしれません。

松平頼則氏が空前絶後なのはまさにそこなのでしょうね。
頼則氏の作品解説で音列と雅楽音階の関連の説明で、雅楽部分の説明が間違っていることが少なくないのですが、仕方ないですよ。西洋音楽と雅楽の双方に通じている専門家なんてどれほどいるのか。おそらく雅楽部分は参考文献を参照しているのでしょうけれども、実践しないとわかりにくい部分はどうしてもありますので。

細川氏に関する批判ではありません、断じて。彼は西洋音楽の作曲家なのであり、西洋音楽として高品質の作品を書いているなら邦楽関係者としての意見なんて聞く必要もないのです。
ただ、「リアの物語」を聴いてしまったので、とても惜しいという思いがどうしてもあるのです。身勝手なのは重々承知ですけれども。

どうしてこうなるのか、考えた場合、最初に書いた、同じく西洋音楽的には後進国であるドイツに思い至ったという訳です。つまり、コンプレックスでしょうか。

独自の芸術的価値のある伝統音楽があるといいながらも、それを普遍化するのは至難です。だからこそ私は、グリーグやヤナーチェク、バルトーク、シマノフスキには、純粋西洋音楽愛好家以上の評価をしているともいえます。松平頼則氏は確かに錬金術を考案しましたが、それは誰もが扱えるわけでもないのは、作品解説でさえ躓いてしまうところから明らかですし。

私がこういう観点なのは立場上仕方ないことなので、純粋な西洋音楽愛好家で細川氏のこのオペラを気に入っている方は、くだらねえ、と一蹴してください。

2014年6月10日火曜日

現代の邦楽器作品の惨状の背景

twitterからの引用、ライトノベル作家の榊一郎氏によるもの。以下引用。

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要は、エンターテイメント作品における「リアリティ」とは、
お客さんが白けない為の雰囲気作りが最優先であって、
逆に言えば大多数のお客さんが「なにこれ?」と戸惑うばかりで、
ごく一部の知識と、高い考証力を持った専門家しか「なるほど!」と膝をうたないような表現は、
リアルではあっても、リアリティ表現としては失敗してる、と考える事が出来る訳ですよ。
勿論、その「一般の圧倒的多数のお客さん」の知識と考証力をどの辺りに設定するのか、
これはもうターゲットたる客層と、時代や国によっても違ってくるので、
そこをどう判断するかが問題になる訳ですが(後略)。

-----

以上引用終了。
これはきわめて示唆に富むといいますか、ちょっと考えたことがあるので。

私が「エセ和風ムード音楽」と嫌悪している、
邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品に関して、なんとなく事情がわかった気がしたのです。

現代において「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」
(現代邦楽と言うと真摯な作品まで含まれてしまうので面倒ですがこう表現します)
を演奏したり聴いたりする「お客さん」というのは、圧倒的に古典の知識が不足しているか、
もっといえばまったく無い場合も少なくないわけで、そういう「お客さん」相手に
「専門家しか『なるほど!』と膝をうたないような表現」はありえないわけですね。
あくまでエンターテイメントであって音楽として考えるからおかしなことになるわけです。
古典を基準に音楽として真面目に相手にしようとすることそのものが間違いなんですね。
なにか状況がやっとわかったような気がしますよ。

西洋音楽作曲家による西洋楽器を使いつつも日本の伝統音楽を
真摯に受け止め、消化し、新たに創造した作品のほうが
「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」よりもはるかに古典邦楽を感じることが出来るのも、
要するに「ターゲットたる客層」の違いによるところが大きいわけですね。
こういう音楽を聴くような人たちは、真剣に音楽と対峙する人々ですから、
創作側も真剣になると、まあ単純なことだったわけです。

単純にエンターテイメントとして消費してどんどん消えていく消耗品と、
音楽作品を同列にして考えることは非常におろかだった、と。

ただ願うことは、少数ながら古典と真面目に向き合っている邦楽関係者の方々、
そういう方たちには演奏はもちろんですが、消耗品ではない、
きちんとした音楽作品の創作にも向き合っていただきたいな、と。
新作の創作が無い音楽は衰退する、というのは
世界のどの地域のどんなジャンルの音楽でも共通しています。
博物館に保存しているだけではダメなんですよ。

楽人である芝祐靖氏はこう述べています。
「自分に作曲の才能が無いことはわかっているが、
雅楽存続のために創作をしている」。

2014年1月7日火曜日

野平一郎による松平頼則:ピアノ作品選集

本日発売された、野平一郎氏演奏による松平頼則のピアノ作品選集です。
さっそく聴いてみました。
松平頼則についてはこちらで過去に少し書いたことがあります
(学校での邦楽教育の教材と魔術師・松平頼則氏)。



(Amazon) (HMV)

収録曲は以下のとおりで、およそ75分、たっぷり収録されています。

・前奏曲 ニ調(1934)
・前奏曲 ト調(1940)
・6つの田園舞曲(ca.1939-45)
・リードI(呂旋法による)(作曲年代不明)
・リードII(律旋法による)(作曲年代不明)
・ピアノ・ソナタ(1949)
・6つの前奏曲 主題と変奏の形式による(1975)

このように、おおよそ作曲年代順に並べられています。
なにしろ膨大な作品を残し、初演を待っている作品も数多く、
いまだ全貌が明らかになっていない松平頼則だけに、
こうした試みは興味深いものがあります。

ピアノを弾いている野平一郎氏は、松平頼則に作品を依頼し、
その結果「ピアノ協奏曲第3番」が、作曲者死の年、2001年に
松平頼則93歳という年齢で生まれました。
この作品は、 野平一郎氏の校訂と独奏により、2010年にようやく初演されたもので、
ご記憶の方もあるかもしれません。

野平一郎氏はそうしたこともあり、松平頼則作品はかなり前から
まとまった録音を意図していたようなのですが、
自身ピアニストとしても活躍していた松平頼則のピアノ作品はなかなかに手ごわく、
ようやく今回リリースに至ったということです(過去に録音しながら没にしたこともあったとか)。

最初の2曲の「前奏曲」は本当に初期の作品ですね。
松平頼則は「前奏曲集」を企画していたようですが、
当時の作曲者は西洋の調性と日本の旋法にどう折り合いをつけるか、
結局回答を見いだせず、残された一曲が後者の前奏曲だそうです。

後年の松平頼則を知るものにとってはかなり意表を突かれる音楽です。
フランス音楽の影響は明らかです。
ピアニストとしても活躍した松平頼則にとっては、
フランス近代音楽はかなり興味をひかれるものだったのでしょうね。

「6つの田園舞曲」「南部民謡集」と共通した語法が感じられます。
ちなみに「南部民謡集」は録音がありますので、参考までに。



松平頼則作品集II/奈良ゆみ

(Amazon) (HMV

松平頼則はこう述べています。

「東北地方の民謡をバルトークのように採取している人に会った。
『南部牛追唄』を見せられたとき、思わず、私には伴奏の最初の音が浮かんだ。
それはsi♭→miなのである。そして『牛追唄』の開始音Faに実に自然に流れ込む。
私の半ば無意識に択んだ二つの音の関係は増4度であった。」
(上記ディスク解説から一部引用)。

つまり、当時フランスの影響下にあった松平頼則は、
民謡の中にドビュッシーを「発見」したということです。
「6つの田園舞曲」も、「南部民謡集」のように、
フランス音楽と日本旋法の折り合いをつけるのに、
民謡に手がかりを得たようです。
そういうわけで、これは当時の松平頼則の模索の記録の一つと言ってよいでしょう。

「リードI(呂旋法による)」「リードII(律旋法による)」の、
正確な作曲年代は実はよくわかっていないのですが、
この位置に置いたことに関しては長くなりますので、
詳しくはライナーノートを参照してください。
呂旋法(あるいは呂旋)、律旋法(あるいは律旋)は、雅楽の音楽用語です。
移動ド式に書きますと以下のような音階です。

 ・呂旋法(あるいは呂旋)
ド・レ・ミ・ソ・ラ・ド

・ 律旋法(あるいは律旋)
ド・レ・ファ・ソ・シ♭・ド

ここで音階の中の音程関係に注目してください。
呂旋法(あるいは呂旋)においては
完全五度完全四度長二度短三度長三度、が、
律旋法(あるいは律旋)においては
完全五度完全四度長二度短三度、が
それぞれ重要な音程となっています。

実際の雅楽でも、「移動ドで書くと」と述べましたように、
転調(中心音(宮)の移動)、移旋(雅楽では楽器の音程が狭いため、西洋音楽的「移調」はなく、
同じ旋律の音高を変えた場合に旋律は必然的に変形します)、臨時音など、
さまざまな理由で基本以外の音は使われますが、あくまで重要なのは
上記の音程関係ということはできます。
この2曲の「リード」においては、それぞれ曲名に付された旋法に含まれる音程関係、
これを意識して聴くと面白いと思います。

「ピアノ・ソナタ」は、1949年という作曲年は信じられないほど、
語法が以前の作品群より洗練されています。
そして、聴くためにはかなりの集中力が必要とされます。
まさに初期の集大成にふさわしい作品です。
演奏技巧的にもかなりな難曲のようで、
作曲者が代案(ossia)を提示している部分もあるようです。

無窮動的な第3楽章に時々現れる休止がかなり印象的です。
このほんのわずかな間が、より緊張感を増すことになっています。

「6つの前奏曲 主題と変奏の形式による」は、いよいよセリーによる作品です。
この作品を構成する6曲の演奏順は任意ということになっており、
ここで野平一郎氏は「第3曲、第1曲、第4曲、第2曲、第6曲、第5曲」
という演奏順序を選択しています。

第1曲で提示されるセリーは以下のとおりです。

「a-gis-fis-es-f-g-e-b-a-h-cis-d」

ここで、上述の雅楽の2つの旋法における重要な音程関係として
指摘したものを参照してください。
このセリーは、「fis-es」「e-b」を例外として
それらの音程関係で成り立っているのです。
さらには、強く弾く音、伸ばす音、等で、特に
完全四度、完全五度、長二度、が浮かび上がるようになっています。
結果として、セリーに依る音楽を聴いていながら、
記憶の底では雅楽の音階を呼び起こされるという不思議な感覚があります。
これが「セリーと雅楽の融合」として有名な松平頼則の
マジックの種明かしになります。

実際、私はこのCDを聴いて、「ピアノ・ソナタ」で極度に集中力を要したため、
かなり消耗した状態で「6つの前奏曲 主題と変奏の形式による」 を聴いたのですが、
前衛語法によるこの作品を聴いて、かなりリラックスした気分になり、
くつろいだ印象を受けました。
本当に作曲者の魔術には感服です。

こうして考えますと、最初期の「前奏曲」で始まり、セリーを使った「前奏曲」で終わるという、
対比としても面白いプログラムだと思います。

まだまだ膨大な作品が残されていますし、何より野平一郎氏にとっても重要であろう、
「ピアノ協奏曲第3番」などもあります。
これを第一歩として、続編を強く期待したいと思います。

2012年9月9日日曜日

洋楽?邦楽?

私が評価する「現代邦楽」はどんなものがあるか?
という質問をされて、考えているうちにいろいろわからなくなってきました。

「邦楽器を使った作品」ということであれば、
諸井誠さんの「竹籟五章」、武満徹さんの「秋庭歌一具」
あたりは評価しているけれども、これは洋楽の作曲家の作品。
ということで、下山一二三さんの作品などはどうかな、と思ったのですが、
今更になって調べてみたら、なんと松平頼則さんの弟子筋にあたる方。

もともと下山一二三さんの作品を知るきっかけは、
師匠の息子さんのCD(尺八とピアノのための作品集)で、
聴いていて、正直作品の質が…と思っていたのですが、
おひとり、下山一二三さんの作品が際立っていたので注目したことでした。
不思議なことに、あまり現代音楽界隈で下山一二三さんは話題に上らず、
邦楽の作曲家と誤解していました。
完全に無知ゆえでお恥ずかしいのですが…。

しかし、ここにきて、ちょっと自分でもわからなくなってきたことがあります。
楽器の区別が絶対的な「洋楽」「邦楽」の区別の基準なのか?
と。

いわゆる邦楽器専門の「現代邦楽」作品は、
楽器こそ確かに邦楽器ですが、語法は西洋音楽です。
たとえ、和風な味付けをしてあっても、
それはロマン派における国民楽派的なものの域を超えるものではないです。
それはたとえ天才・宮城道雄とて例外ではありません。
宮城道雄は形式的には手事物などもかなり残していますし、
それなりに伝統に気を配っていたことはうかがえるのですが、
やはりそういう時代だったのでしょう。
もちろん、それは質とはまた違う話で、
宮城道雄が天才だったのは、そうした創作の仕方でも
質を保てたところでしょう。

対して、洋楽の作曲家の中で、
たとえば私が峰崎勾当以来の日本の大作曲家と
考えている松平頼則さん、膨大な作品を残していますが、
初演すらされていない作品も多く、私の所持CDは4枚だけ、
他に聴いたことがあるのはピアノ組曲「美しい日本」と、
先日ラジオ放送されたコンチェルティーノだけ。
それでも、全てが高水準を保っているのは驚くべきことで、
洋楽器を使い、洋楽の語法を使いながらも、
巧みに雅楽などの要素を消化している、ちょっと考えられない作風です。
はたして、これを洋楽とだけ評価していいものだろうか?と。

先日演奏会で聴いた「美しい日本」、各種伝統音楽を題材にしています。
雅楽はもちろん、平曲、筝曲、民謡…。
それらの「国民楽派的」利用ではなく、構造そのものを利用しているわけです。
平曲については勉強不足で、ちょっとわからなかったのですが、
平曲をご存じのかたは「あれは間違いなく平曲」だと
おっしゃっていたのが印象的でした。
そうだろうな、と思うのは、この組曲の終曲、「箏曲風の終曲(茶音頭)」が
見事に手事物形式で、初めて聴くにもかかわらず、
「あ、手事に入った」「チラシだな」「ここから後唄か」と、
不思議なことに体が反応していたからです。
茶音頭の具体的な旋律の引用があったかどうか、それはわかりません。
あるにしても、おそらく分解されて知覚できなくなっていると思われます。
これは本当に不思議なことで、科学的説明を求められると困るのですが…。

こういう音楽を、洋楽器を用いているから、とか、
洋楽の作曲家であるから、という理由で「洋楽」と
単純にジャンル分けしていいのかな、と
前から思っていたのですが、まだ松平頼則さんの場合は洋楽器を使っている、
ということで、仕方がないかも、と思っていました。

しかし、下山一二三さんの場合には、邦楽器を使った作品が
それなりの数あります。実際無知ゆえとはいえ、
邦楽系の作曲家と誤解していましたし。
こうした場合、もう「洋楽の作曲家だから」と、
邦楽から切り離すのはどうなんだろう、と。

弟子筋にあたるとはいえ、松平頼則さんの高雅な書法と、
下山一二三さんの強烈な情念とは対極です。
しかし、これだけ面白い曲を書いていた人が
松平頼則さんの門下ということを知り、妙に納得したりもしました。

国際的に評価が高い細川俊夫さん、彼は私はどうも苦手です。
たとえば箏、三絃、尺八のための「断章Ⅰ」。
これは細川俊夫さんの80年代の特徴的な語法の作品ですが、
伝統との断絶を痛烈に感じます。
また同じく80年代の「観念の種子」。
これは声明と雅楽のための作品ですが
古来の五行思想を持ち出したりしていますが、
まったく細川俊夫さん流にアレンジされていて、
こちらもまったく伝統音楽の香りはみじんも感じない。

私は何しろ、作曲などという高度な創作行為に関して素人ですので、
何がここまで松平頼則さんと細川俊夫さんをして
伝統を感じるかどうかの差異を生じさせたのか、
専門的見地から説明はできないのですが…。
お二人とも、伝統音楽をそのまま使うのではなく、
自分なりに消化したうえで創作されているので、
表面的に和風な味付けをしているというわけではないのです。
これはもう、一応伝統音楽の片隅にいる者としての嗅覚です。

少々話がずれました。
さて、邦楽器を使えばそのまま「邦楽」になるのか、
洋楽器を使いつつも「邦楽」ということは絶対にありえないのか、

洋楽とか邦楽っていうのはなんなのでしょう?

2012年3月23日金曜日

L'Amour de loin

しばらくサボっていたので連続更新です。

サーリアホのオペラ、「彼方からの愛」、現代音楽では珍しいことに、
違う演奏のDVDとSACDがあります。

DVDの方はサロネン指揮フィンランド国立歌劇場管弦楽団、
クレメンス役にアップショウなどの顔ぶれ。


SACDの方は、ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団、
クレメンス役エカテリーナ・レキーナなどの顔ぶれ。


さて、絵付きのDVDと、音質でまさるSACDということで、印象がかなり違います。
DVDの方はその静謐な水を印象的に使った舞台演出とともに、
サーリアホ特有の透明感が相乗効果で非常に美しいです。
サロネンはサーリアホ作品をよく指揮していますし、しっかり把握している印象。

SACDの方は、さすがに細かいところまでよく聞こえます。
特に合唱がくっきりしていて、ちょっとびっくりしました。
ケント・ナガノは初演指揮者。
メシアンのアッシジのフランチェスコなどでも成功していますし、
ザルツブルク音楽祭でのこのオペラの成功に一役買っていたのかもしれません。

まあ、本音をいうと、私はサーリアホの音楽は80年代が一番好きなんですが。
とくに切り詰められた編成の作品での研ぎ澄まされた感性は、
これはすごい若手が出てきたもんだ、と思い、それから追っかけていますが、
保守的といわれるザルツブルクの聴衆を意識したのか、
語法が変化しているなと思います。
たぶん、現代音楽なんか聴かない人でも受け入れやすい方向へと。
これが自発的なものかどうかはわかりませんが、
80年代、あるいは、Du cristal、...A la fumee の2部作(89~90)の頃の
ほうが、個性的で魅力があったと思うのは懐古的にすぎるでしょうか。

サーリアホは2つ目のオペラも書いているようですが、未聴です。
ただ、まあ聴きやすい現代オペラがあるのはいいことなのかもしれませんが。
私は、新作の無いジャンルは滅びる、というのが持論ですので。

2012年2月5日日曜日

学校での邦楽教育の教材と魔術師・松平頼則氏

学校教育で邦楽器の教育が義務付けられてしばらくたちますが、
学校の音楽教師が大体においてまっとうに演奏できないのですから、
これはなかなか難しい問題なのです。

みなさんご存じの「さくら」は、幕末に箏の手ほどき曲として作られたもので、
その意味では、近世邦楽の音階である、いわゆる都節音階に対しては、
素晴らしい教材として現在でも使えると思います。

さて、邦楽といってもいろいろあるわけですが、雅楽は厳密には「邦楽」には入らない
そうですが、教育としてはやっておくべきものだと思います。
しかし手ほどき曲が問題になってくるのですね。

雅楽の手ほどき曲というと「五常楽」が使われることが多いようです。
実際にこういうDVDも出ていて、独学できるようになっています。
篳篥・笙・龍笛・五常楽にチャレンジ 雅楽入門 [DVD]

しかしこれは近世邦楽でいえば、例えば地歌ならいきなり「黒髪」から入るようなものです。
全般的に邦楽には極端に手ほどき曲が不足しているのです。
最初からコンサートピースを習うことができるのは、良いことでもありますが、
初修の曲だからとおろそかに考える人も出てくるのが問題です。

さて、「君が代」は皆さんもご存知ですね。
いろいろ思想的なことはとりあえずおいておいて、旋律としてこれは、
壱越律旋の手ほどきとしてうってつけなのです。
君が代演奏拒否の教師が理由として、
「雅楽音階の曲を西洋和声で平均律のピアノでは演奏したくない」ということを挙げていて、
これは確かに一理あるんですよ。

そこで、歌詞の問題もクリアする方法、また邦楽器教育の一つの方法として、
君が代を雅楽器で演奏する教育を行うというのはどうかと思うのです。
おそらく、雅楽音階においての手ほどきとして、近世邦楽音階における「さくら」と同じくらい
優れた教材であると私は考えます。
皆さん歌詞の事で議論しているのでしょう?よくわかりませんが。
でも旋律としてこんなすばらしい教材を使わないのはもったいない。
唄うのが嫌な教師・生徒は雅楽器を演奏すればいい。
割と真面目な提案です。

その後に「五常楽」や「越天楽」に進めば、自然に上達することでしょう。

雅楽特選
ところで、越天楽を題材に西洋音楽の話もしておきましょう。
まず、「越天楽」は「渡物」といって、3つの調子のものが存在します。
雅楽「越天楽」三調
このCDは非常に素晴らしい音盤で、その3つの調子(平調・盤渉調・黄鐘調)の
「越天楽」がおさめられているだけでなく、平調「越天楽」では「残楽(のこりがく)」という
特殊な演奏形態で演奏されています。
さらにお得なことに、「五常楽」も収められているのです。
「雅楽を何か聴いてみたい」という方には、まずこれをお勧めしたいです。

さて、私が個人的に峰崎勾当に並ぶ日本の大作曲家と考えているのは、
松平頼則(まつだいらよりつね)氏です。
「松平」という姓からわかるとおり、そういう家柄の人で、
音列による西洋作曲技法と、雅楽の要素を魔法のように融合させた
とんでもない技法によって、多くの作品を残しています。
「越天楽」と関係するのはこちら。
松平頼則:ピアノとオーケストラのための主題と変奏/ダンス・サクレとダンス・フィナル/左舞/右舞
この「主題と変奏」はカラヤンが指揮した唯一の日本人作品としても有名ですが、
その主題は「越天楽」、しかも普段よく聞く平調のものではなく、盤渉調のものです。
「越天楽」はもともと盤渉調だったといわれ、雅楽に関してとんでもない知識をお持ちだった
松平頼則氏のこと、これは意図的なものでしょう。
この作品はまだ氏の本当に初期の作品で、雅楽を解体し、音列と融合して
再構築するのちの作風はまだ出ていませんが、それだけに初めて聴くにはなじみやすいでしょう。
松平頼則作品集
ここに収められている「春鴬囀」 はむろん、雅楽四大曲の一つのことです。
雅楽「春鶯囀(しゅんのうでん) 」はこちら。
峰崎勾当以来の大作曲家ということは、西洋音楽作曲家としては間違いなく
日本最大の作曲家でありますから、氏の音楽を正当に評価するためにも、
雅楽の教育というのは大切ではないかと思います。

追記:こちらに新しい記事もあります
野平一郎による松平頼則:ピアノ作品選集