2012年4月23日月曜日

苦悩は愉悦に勝るのか?:ロッシーニを正当に評価しよう

どうも日本のクラシックファンは独墺系の交響曲ばかり聴く方が多いですね。
苦虫を噛み潰したような表情でドイツ語圏の作曲家の生真面目な作品を
苦悩を共有しながら聴くという一種修行のような聴き方が
いかにも「自分は高級な人間だ」という気持ちにさせてくれるからでしょうか。

さて、何度か書いてきましたが、最近ロッシーニの天才に圧倒されています。
しかし彼の才能というのは、上述のような高踏的なものにしか価値を
見いだせない方には、一生縁がないものでしょう。

ロッシーニは、いまだにブッファの作曲家と思われていますし、
実際彼の生み出す愉悦は筆舌に尽くしがたいレベルに達しています。
無論、私が主に圧倒されているのはその点なのですが、
それだけでは誤解を助長しかねないので、セリア作曲家としての
ロッシーニにまず触れておきます。

彼の時代はちょうどセリアの転換点のひとつでもありました。
基本的にセリアは王侯貴族とのかかわりが伝統的に強く、
どんな悲劇でもハッピーエンドがお約束でした。
ロッシーニの少し前の世代から、次第に悲劇的エンドが出てきます。
そして、それを本格的に取り入れ、一般化したのはロッシーニだといえます。

ただ、現代では考えがたいことですが、当時としてはそれは
あまりにも生々しく、衝撃的に過ぎるという面もあったようで、
ロッシーニの多くのセリアには、悲劇的エンディングとともに、
ハッピーエンドの別バージョンが存在します。
「タンクレディ」などはオリジナル悲劇的エンディングが発見されたのは
比較的最近のことです。
また、CDのように融通の利くものは別として、実際の上演では
どちらかのバージョンを選ばなければなりません。
どちらもロッシーニとはいえ、やはり悲劇的エンディングのものは
一般的イメージのロッシーニとはかなりちがいます。
ゾッとするような効果をもたらします。

ここで両方のエンディングを収めたCDをいくつか紹介しておきます。
ぜひ皆さんのご自分の耳で味わってください。

 「タンクレディ」



(Amazon)
言わずと知れた初期のセリアの名作です。
これはリブレット付きですが廃盤ですので値が張ります。
しかし、それだけの資料価値は十分あります。

ちなみに、ピリオド楽器演奏で両方のバージョンを収録したものもあります。



(Amazon)
こちらも廃盤ですが、私は運よくアウトレットで入手できました。
こうした廃盤ものもタイミングが合えば安く入荷できるチャンスがありますので、
今は高くとも、チェックしておいてみてください。

「オテロ」



(Amazon)
この「OPERA RARA」というレーベルは非常にすばらしいです。
このオテロに限らず、別バージョンを可能な限り収録したり、
それ以前にまずほかでは録音がないような作品をリリースする、
オペラ専門レーベルです。
しかも、ブックレットがこれまたすさまじい詳細さと美麗さで、
少々高めですが、必ず満足できます。
この「オテロ」はシェイクスピアが原作とは考えない方がいいです。
その前提を忘れなければ楽しめます。
悲劇的エンディングはかなり衝撃です。
当時ならいかばかりだったか、と思います。

一つの商品で両バージョンを収録しているのは
私の所有しているものではこれくらいかなと思います。
あとはですから、悲劇的エンディングの演奏と
ハッピーエンドの演奏を少なくとも両方揃える必要があるわけです。

さて、ロッシーニが悲劇的表現にも長けていたということの
証明の後で矛盾するようですが、やはりロッシーニは愉悦の人です。
ドイツ的苦虫はいくらでもいます。
でも、ロッシーニのように、有無を言わせぬ愉悦で
全身を満たしてくれる作品を書く作曲家は、本当に稀です。
私はそこにこそロッシーニの天才を感じずにはいられないのです。

「セヴィリアの理髪師」のようなもうすでに有名な作品は今更ですので、
この2作品をぜひ紹介したいです。これらにしても
ロッシーニ好きにとっては今更なのですが…。

「マティルダ・ディ・シャブラン」




(Amazon)(HMV)
まず脅してみましょう(笑)。第1幕だけで2時間かかります。
はたして冗長な作品でしょうか?
2流歌手ならその欠点が出るかもしれませんが、
上記のリンクの音盤は、フローレス歌うコッラディーノが
とりわけすばらしい!。こんな難役を歌いこなすのは
現代では彼くらいでは?
そう、こういう歌手に恵まれたとき
この作品は筆舌に尽くしがたい愉悦の3時間をもたらしてくれます。
ロッシーニ演奏の問題のひとつではあります。
優秀な歌手、それもヴェルディやワーグナーなどと根本的に違う
技巧が必要なのです。
ロッシーニの作品需要が高まったおかげで、こうした
ロッシーニ歌手が増えてきて、好循環をしてきています。
これはマイアベーアの話を書いたときにも少しふれました。


「オリー伯爵」



(Amazon)(HMV)
この作品は間違いなく傑作なのですが、
この作品ほど誤解にさらされた作品もないでしょう。
音楽の大半は大カンタータ「ランスへの旅」の再利用というところです。

・「ランスへの旅」

(Amazon)(HMV)
こちらは復活演奏のもの。アバドの旧録音。
安いのにリブレットがついている点でオススメかもしれません。

(Amazon)(HMV)
もっと安いアバド新録音。ベルリンフィルという点がウリでしょうか。
安いので両方持っていてもいいと思います。

ところでこの「ランスへの旅」、フランス王の戴冠式のための
機会音楽です。
そしてここも独墺系苦虫がお好きな人が良く勘違いする点ですが、
当時は機会音楽の方に作曲家は全力を尽くしました。
たとえば、ザルツブルク時代のモーツァルト、
交響曲とセレナード、どちらが名作が多いでしょう?
偏見と先入観さえなければ圧倒的に後者であるとわかります。
これはもちろん理由があります。
機会音楽が必要とされるような機会には、使われる楽器の種類も数も、
そして集められる楽員の力量も特別なのです。
モチベーションも高まりますし、自分の力量を正当に評価してもらうには
絶好の機会でもあったわけです。

というわけで、ロッシーニの「ランスへの旅」も最上の音楽です。
ところが機会音楽といううのは、それ一回きりの音楽でもあるわけです。
紛失したりすることはめずらしいことではなく、
実際「ランスへの旅」もロッシーニは保存する気はなく、
復元はロッシーニルネサンスの最大の成果ともいえます。

ただ、モーツァルトがセレナードを交響曲に編曲しているように、
自分のベストの音楽は別の文脈で生き残らせたいというのも当然です。
そこでロッシーニは「オリー伯爵」という傑作オペラとして
その名残を残そうとしたわけです。

不思議なのですが、バッハは世俗カンタータ(機会音楽です)を
いくつも教会カンタータやオラトリオに音楽を別の文脈で
生き残らせていますが、19世紀の学者は「聖化」と称してむしろ礼賛しました。
それが、ロッシーニの場合、
なぜか怠惰の象徴のようにいわれることがあります。
これが全くの的外れであることは、「ランスへの旅」と「オリー伯爵」の
両方をきちんと聴けばわかることです。
とにかく音楽は極上です。
ぜひお確かめください。

このような愉悦に満ちた音楽は、本当に
苦悩に満ちた音楽に劣るのでしょうか?

2012年4月18日水曜日

アンナによるアンナ:ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」

最近は主にロッシーニやドニゼッティによるオペラを
中心に聴いているのですが、これは映像で観ました。
ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」のウィーン国立歌劇場の新プロダクションです。


(Amazon)(HMV)
これが本当に素晴らしいのですよ!
偶然にもヒロインと同じ名前のアンナ・ネトレプコ
によるアンナ、ガランチャによるジョバンナはもちろん、
なによりダルカンジェロによるエンリコが貫録というかわかりやすい
悪人ヅラといいますか(失礼!)、なにしろ歌の実力はもちろん、
視覚的にも非常にわかりやすくてよいです。
日本語字幕はないですが、よく知られた物語ですから
なんとかついていけると思います。
どうしても日本語訳が欲しい方はこういう本もあります。
おぺら読本対訳シリーズ(40)アンナボレーナ/ガエターノドニ


私は現代的演出もいいとは思いますが、
すくなくともこのアンナのような作品の場合、こうした
保守的衣装と時代設定は必要不可欠であると思うのです。

アンナ・ボレーナ、すなわち英国国王ヘンリー8世の2番目の妻、
アン・ブーリンがこの作品のヒロインなのですが、
こうしたヒロインは、悲運に襲われても、毅然として
王妃と しての尊厳を忘れない強さがあり、
そこが歴史ものとしての背景の必然性だと思います。
女性に限らず、こうした強さを持った人物が現代において
はたして説得力をもって提示できるかというと、非常に難しいと思います。
高貴な立場という自覚が俄然説得力をもたせると思うわけです。
ですから、この作品や、「女王三部作」といわれる他の2作品、
「マリア・ステュアルダ」、「ロベルト・デヴリュー」にも
同じことが言えると思います。

そしてピドの指揮もオペラ指揮者として非常にツボを心得ていて、
聴いていて非常にここちよくドラマに入り込むことができました。
ウィーン国立歌劇場管弦楽団と合唱団がすばらしいのも言わずもがなです。

「アンナ・ボレーナ」は、 シルズ、グルベローヴァ、テオドッシウと
聴いてきましたが、なにしろ共演者にも恵まれなければなかなか難しいです。
カラスはちょっと苦手なので聴いていません。伝説ではありますが。

ぜひネトレプコには「マリア・ステュアルダ」、「ロベルト・デヴリュー」、
そしてグルベローヴァの「ルクレツィア・ボルジア」が、
ややキャリアの最盛期を過ぎてしまったかな、という感が否めないのが
非常に悔やまれるだけに、できれば傑作「ルクレツィア・ボルジア」の映像もお願いしたいところです。
もちろん「マリア・ステュアルダ」にはガランチャもぜひ再び共演して、
女の、女王の戦いを見せてほしいと思います。

2012年4月10日火曜日

テルミンとマルティヌー

ヤナーチェクは以前から大好きなのですが、
マルティヌーのよさがわからないと「まだまだ」だと
どこかに書いてあったので、
マルティヌーをちょっと集中的に聴いています。

そんななかで教えていただいた曲、
マルティヌー 七重奏曲 「ファンタジア」
テルミン、オーボエ、弦楽四重奏、ピアノのための曲です
(最初のホリガーの解説がちょっと長いので注意)。

実はテルミンの入っているちゃんとした曲は初めて聴きました。
オンド・マルトノがあれほどメジャーなのに、
テルミンはなぜなのでしょうね?
そしてテルミン、映像付きでみるとインパクトが何倍にもなります。
演奏の様子がとても面白いです。

それにしても、この曲はマルティヌーの中でもかなり面白い曲ですね。
彼はとんでもない多作家なので、ハマると大変そうですが、
面白い曲は確かにあるのだなと思いました。

2012年4月9日月曜日

「型を破る」ということ

最近、ラインベルガーの室内楽作品をまとめて聴いていたのですが、

ラインベルガー室内楽曲全集


(Amazon)(HMV)
アカデミズムの権化のように言われる彼が
最初からそうであったわけではないことを
再発見したというところがありますとともに、ちょっと悲しみも感じます。

ラインベルガーはとにかく多作家で、
作品番号がついているものだけで200ほどある上に、
たとえば正式な弦楽四重奏曲2曲以外にも12曲も習作があるなど、
全貌把握は極めて難しい人なのですが、
オルガン作品全集や、作品番号付き室内楽作品全集はCDは出ていますし、
最近ピアノ作品全集も出ましたので、
改めてちょっと聴いていたところです。

(Amazon)(HMV)

彼は1866年には「ワレンシュタイン」という標題交響曲
(原題は「大オーケストラのための交響的音画」)を書いていまして、
かなりの絶賛を博したとあります。1時間ほどの大作です。
このCDに含まれています。

(Amazon)(HMV)
シラーのこの作品はすでにスメタナが「ワレンシュタインの陣営」という交響詩を書いていますが、
実はラインベルガーの上述の作品のスケルツォ楽章も「ワレンシュタインの陣営」と題され、
その上、独立した交響詩として演奏してよい、として実際にその楽章だけ楽譜を分売するなど、
きわめて挑発的なことをやっています。

この当時はハンスリックの標榜するいわゆる「絶対音楽」「標題音楽」という
論争の最中ですので、当然ラインベルガーの作品は「標題音楽」という見方をされたのですが、
面白いことに、1877年のコンサートガイドでは、「絶対音楽としてもみなしうる」とされ、
両陣営から評価されていたということですね。

ラインベルガーの「ワレンシュタイン」は上述のとおりCDも出ていますので、
聴くこともできますが、演奏がちょっと難ありなので、評価が難しいです。

ちょっと前置きが長くなったのですが、転換点となった作品が
ピアノ三重奏曲第1番(1862年、改訂1867年)ではないかと思うのですね。
改訂された1867年というのは「ワレンシュタイン」の初演の年にあたります。
このピアノ三重奏曲、表面的にはスケルツォ楽章を含むなんということのない
4楽章構成なのですが、聴いていただけるとお分かりになると思うのですが、
かなりの型破りな作品です。先入観を抱かないでいただきたいので、
とりあえずそのことだけを書いておきます。
批評家によっては、ベルリオーズの影響を指摘する人もいます。

さて、件のピアノ三重奏曲第1番が成功かというと、否でしょう。
「型破り」な作品を書くにはラインベルガーはまじめ過ぎたか、
人として正常だったのだと思います。
若い彼が次にとった行動が「標題交響曲」という道ですが、
当時すでに指摘されていた通り、それは標題がなくてもいいものであったわけです。

年を経るにしたがって、ラインベルガーはアカデミックな書法を
突き詰めるような道に進んでいきますが、これは若いころの野心作を
聴くに、正解だったと思います。
教育者としても名を成した彼は、生徒に「フーガ師」などとあだ名をつけられたりしたようで、
型を破ろうとしてなしえなかった彼にはきついあだ名だったでしょうね。

メンデルスゾーンのオルガンソナタに比してラインベルガーのオルガンソナタは
「基本的に前奏曲とフーガ+αの三楽章構成であって、保守的」と断じたことがあるのですが、
ラインベルガーはあえてその道を選んだ、ということなのですね。
「型」の中で多様性を発揮しよう、というその作曲姿勢は、
バロック時代や古典派時代の作曲家に通じるものがあります。

R=シュトラウスがラインベルガーを語った言葉があります。

「彼は作曲家だ。毎日6時から5時まで作曲をする。
私はインスピレーションがわいたときしか仕事ができない。」

ロマン派時代の作曲家ですが、ラインベルガー作品を鑑賞するには、
ハイドンを鑑賞するときのような姿勢が必要なのではないかと、ふと思ったのでした。

作曲にしても、演奏にしても、「型を破る」ということがどういうことか、
自覚をすることは大切だな、と再度確認した気がします。