2019年1月21日月曜日

クープラン「諸国の人々」

ルセの新譜があまりにも見事にこの作品のポテンシャルを引き出していたので備忘録。



 (Amazon)

「トリオ編成の合奏によるソナードと組曲」
タイトルページ冒頭にして、各パート譜のタイトルです。
よくある誤解は、この「組曲」を「オルドル」と混同したものです。まったく違います。
クープランがなぜ「オルドル」と称しだしたかというのは、
当時の「組曲」の概念からあまりにも逸脱しているので、
新たな秩序に基づく新時代の組曲であることを強調するためで、
そのクープランが「組曲」と明示しているのは当然明確な意思によります。

なぜこの点が見落とされがちなのかというと、
音盤などにも原因があるでしょう。
CDのトラックリストで明確にソナードと組曲を区別したルセはさすがで、
この2つを一連のものとした従来の表記には問題があったのです。
出版譜を参照しながら鑑賞することは今日では容易ですが、
一昔前にこんなことをされていては誤解が普遍化するのも仕方ありません。
ささいなようですが、この点は非常に重要です。

「組曲」と明示するからには徹底的に。
18世紀初頭には化石の感さえある、古色蒼然とした
タイプの異なる2つのクーラントを含む、舞踏組曲。

いや、クラヴサン曲集第2巻にはあの第8オルドルがあるじゃないか、というのは当然の疑問で、
私も長年誤認していたのですが、モロニーによる慎重な資料調査に基づく最新研究は、
第1巻と第2巻に関しては作曲順ではない、ということを明らかにしていまして、
擬古典的に作曲されたものとばかり思っていた件の第8オルドルは、
純粋に作曲年代からして古いものだった、というだけのことでした。
つまり、「諸国の人々」における「組曲」は意図的に擬古典的な構造であるということです。

1.ソナードに関して

初期稿には従来知られていたパリ手稿譜(F-Pn Vm7 1156)、
リヨン手稿譜(F-LYm Mus. 129.949)、
そして最近再発見されたドレスデン手稿譜(D-Ds, Mus. 2162-Q-2)
の3つがソースとして現存し、表記順に新しくなっていきます。
従来「神聖ローマ帝国の人々」のソナードは書き下ろしと考えられていたのは、
ドレスデン手稿譜にのみ初期稿が含まれることに起因します。

La Convalescente. | Sonnade del S. Couprin.
(ピゼンデル筆写:c.1715)

電子化されています(最近のようです)。
スコア
http://digital.slub-dresden.de/werkansicht/dlf/16141/1/
パート譜
http://digital.slub-dresden.de/werkansicht/dlf/10501/1/

この初期稿は楽章順から異なっていて(発見の遅れた一因?)、
また、ピゼンデルのパリ滞在中の作品ということはかなり新しいです。
それはこのソナードがかなり当世風なことと当然無関係ではありません。
書き下ろしと考えられていただけあって、コレッリ風な「歩くバス」を筆頭に、
線的書法部分の相対的な減少とあわせ、出版当時の趣味に近いです。

2.組曲に関して

「ビエモンテ人」を除き、シャコンヌまたはパッサカーユを含むことも
17世紀様式に忠実です。
「フランス人」のみ、ロンドーを含まない、さらに古い様式です。
「スペイン人」のパッサカーユは最終楽章であることは、少々古めかしい印象を与えます。

3.ソナードと組曲について

1と2で観たことを念頭に、全体の構造としてこの2つの関連性を。

古い舞踏組曲である「フランス人」のソナードは厳格な線的書法が支配的でありつつ、
エールを配することにより新様式部分がより際立つ構成です。
組曲における「シャコンヌあるいはパッサカーユ」のあとに軽い舞曲を配し、
緊張を和らげる手法は17世紀後半に一般化したもので、
その好例が前述第8オルドルです。
ソナードも組曲も、伝統を重んじつつ、当世風を織り込むまさにフランス趣味。

一方、パッサカーユが最終楽章である「スペイン人」のソナードは全体を象徴します。
最終部分である「Vivement et marqué」は、固執低音に基づきますが、
これはブクステフーデのPraeludium(BuxWV148)の終結部同様、
2拍子によるシャコンヌと認識してよいと思われます。
少なくとも、ソナードにおいても最終部分が固執低音であることは意図的な配置でしょう。

ソナードが最も当世風な「神聖ローマ帝国の人々」においては、舞曲の書法も当世風です。
「フランス人」における、リュート黄金時代の伝統書法と比較すると明確になります。
柔軟に当世風であることができるのは、固執すべき伝統のしがらみの薄さとも無縁ではなく、
ドイツ語圏におけるかれらの自国趣味の確立に向けた努力そのものと親和性があります。

「ビエモンテ人」にはシャコンヌもパッサカーユも含まれない組曲で、
舞踏よりは歌謡の国、イタリアにはふさわしいでしょう。
ソナードはそれを裏付けるかのように、2つのエールが含まれ、
ソナード全体の長さから見ると旋律重視の書法がより強いものです。

4.趣味の和

3で述べたとおり、ソナードと組曲は相互に密接に関連するよう、慎重に配されており、
この2つが完全にバラバラにならないように留意されています。
そういう意味においては、組曲部分をオルドルと認識するかのような
4つのソナードと組曲(オルドル)というのは誤認ですが、
「4つのソナードと組曲、または4つのオルドル」という認識はし得るかもしれません。

ここに到って気が付いたのですが、フランス様式の組曲に、
前奏曲ではなくソナードを配した極めて前衛的なオルドルというありかたは、
ナポリ派セリアでありながら好んでフランス風序曲を配したヘンデルの裏返しではないですか!
ヘンデルのオペラの伝統と当世風の自在な混在、というありかたとも。

クープランが「諸国の人々」で見せている様式の融合というのは
地域的なものにとどまらないのです。
3でのべたとおり、内部においては新様式と、程度の違う古さの各種伝統書法も包括します。
バッハがクラヴィーア練習曲集において行うことになる総決算的な試みは、
18世紀初頭において、クープランも試みていた、ということになると思います。

クープランというのは、その偉大さを言語化しにくい作曲家です。
バッハやラモー、ヘンデルあるいはモンテヴェルディ、みな明確に新様式を創造しましたが、
クープランにおいてはその認識がしにくいのです。
ただ、今回優れた演奏によって最大限にポテンシャルが引き出された「諸国の人々」、
ここにはクープランの「明確な新様式」が認識し得ると思います。
問題は、バロック時代の各種様式を、今日的視点を完全に排して把握できるかどうか、
ということになるのだと思いますが、日本にはびこる印象批評では啓蒙は厳しいでしょう。

そういう意味においては、資料考察はしっかりしていて、しかしそれを語ることを好まず、
演奏において全てを提示するルセの力量はそれこそ一言では表し得ないです。
今回も、すばらしい演奏を堪能させてもらいました。
あまりの濃密さに圧倒されましたよ、誇張無しで。

2014年9月15日月曜日

もしかしたらあったかもしれないグラズノフ受容

セレブリエール指揮によるグラズノフの交響曲・協奏曲全集を買いました。


(Amazon) (HMV)

実は目的は協奏曲全集のほうで、小規模協奏作品をそろえるには
これが一番手っ取り早かったからです。

グラズノフは一応出来る限り全てのジャンルを聴いているのですが、
イメージといいますか、いまひとつつかみどころが無いのです。
ピアノ作品全集や弦楽四重奏曲全集、管弦楽作品も出来る限りいろいろ
聴いているのですが、「個性」がどこにあるのか、非常にわかりにくいのです。

私は好きな作曲家か、あるいはこうした「よくわからないな」という作曲家か、
そのどちらかに当てはまると徹底して聴きたくなる傾向にあるようで、
グラズノフは後者に分類され、できる限りの曲の種類を聴くようにしています。

さて、このBOXを少しずつ聴いていたのですが、
ちょっと驚いたのはフィルアップの「海」を聴いたときでした。
こんなに面白い曲だったかな?と耳が反応しました。

グラズノフの評価というのは、「折衷主義」という言葉でよく表されていますが、
どうも、ロシア的要素にこだわりすぎないほうがいいのではないか、と思ったのです。

管弦楽作品に関して言えば、やはりその巧みな管弦楽法は特徴であり、
チャイコフスキーが西欧旅行中にチェレスタを知り、
「くるみ割り人形」の「金平糖の精の踊り」に使用しようと心に決めてロシアに
チェレスタを手配する準備をするときに、念を押して注意したことは、
「私が作品で使うまではロシアの作曲家には知られないように厳重に注意すること。
特にリムスキー=コルサコフとグラズノフの二人には絶対に知られてはならない。」
ということでした。
逆に言えば管弦楽法に関してこの二人を非常に高く評価していたとも言えます。

グラズノフの交響曲はそこそこ録音も実演も少しずつではありますが増えている印象ですが、
その他の管弦楽作品はまだまだ、ということも感じます。
ロシアの演奏家はがんばっていますね。

スヴェトラーノフ御大は交響曲だけでなく、そうした管弦楽作品を
かなりの数録音していますが、現在入手困難です。残念。

かなり前置きが長くなりましたが、セレブリエール指揮による「海」に戻ります。
これはグラズノフ初期の作品ですが、すでに完成度はかなり高いです。
15歳であの「交響曲第1番」を完成させているのですから、不思議ではないのですが。
セレブリエールの演奏は、交響曲全体にも言えることですが、
無国籍風といいますか、ロシア的な要素をあまり強調していません。
これが結果的に面白い響きを生み出しているように感じます。

たとえば、R=シュトラウスの演奏に関して、ベームやライナーやケンペあたりは、
音楽の内容にも意味を見出そうとした演奏をしています。
言い方は悪いですが、カラヤンの場合は、徹頭徹尾響きの華麗さを追求する方向です。
いや、もちろんそれだけではないですが、これはかなりエポックメーキングだったと思います。
「そうか、オーケストラの華麗な響きに酔いしれるという楽しみ方もありだ!」ということです。

セレブリエールによるグラズノフの「海」を聴いたとき、そのことを想起しました。
芸術的感銘とか音楽的な深遠とか、そういったことはとりあえず置いておくと、
グラズノフの華麗なオーケストレーションに純粋に浸るという楽しみもあるのではないかと。

グラズノフの交響曲以外の管弦楽作品はロシア系以外の演奏の録音は極端に少ないです。
ですから結果的に「ロシア的ななにか」を求めた真面目な演奏が多くなっているわけです。
それは大切なことですけれども、グラズノフの楽しみ方の一面を奪っているかもしれない。
カラヤンがR=シュトラウスの交響詩演奏で行ったような一種の開き直りがあると、
また違った可能性があるのかもしれない、と思ったのです。 
もし、往年のカラヤン/ベルリン・フィルがグラズノフの管弦楽作品を取り上げたら、
グラズノフの現在の位置が大きく変わっていた可能性もあるのではないかとさえ思います。

ただ、当時としては演奏会にせよ録音にせよ、グラズノフの知名度では
OKは出なかったでしょうから、本当に”IF”でしかないのですが。
ただ、当時の音楽界の状況を考えれば、カラヤンが取り上げていたら、
とりあえず聴いてみるか、という人々も一定数存在したと思いますし、
その中の何割かは「結構面白いな」と思ったかもしれない、ということです。

ただし、私が感じたのはまだここまでです。
華麗にオーケストラを響かせる演奏に身をゆだねることは心地よいのは確かです。
ただ、聴き終えた後に、「どういう曲だった?」と尋ねられると、答えに窮します。
グラズノフが本格的に受容されるにはまだ何かが足りないでしょうし、
私もそれを求めて今後もグラズノフを聴いていくのだと思います。

2014年6月10日火曜日

現代の邦楽器作品の惨状の背景

twitterからの引用、ライトノベル作家の榊一郎氏によるもの。以下引用。

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要は、エンターテイメント作品における「リアリティ」とは、
お客さんが白けない為の雰囲気作りが最優先であって、
逆に言えば大多数のお客さんが「なにこれ?」と戸惑うばかりで、
ごく一部の知識と、高い考証力を持った専門家しか「なるほど!」と膝をうたないような表現は、
リアルではあっても、リアリティ表現としては失敗してる、と考える事が出来る訳ですよ。
勿論、その「一般の圧倒的多数のお客さん」の知識と考証力をどの辺りに設定するのか、
これはもうターゲットたる客層と、時代や国によっても違ってくるので、
そこをどう判断するかが問題になる訳ですが(後略)。

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以上引用終了。
これはきわめて示唆に富むといいますか、ちょっと考えたことがあるので。

私が「エセ和風ムード音楽」と嫌悪している、
邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品に関して、なんとなく事情がわかった気がしたのです。

現代において「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」
(現代邦楽と言うと真摯な作品まで含まれてしまうので面倒ですがこう表現します)
を演奏したり聴いたりする「お客さん」というのは、圧倒的に古典の知識が不足しているか、
もっといえばまったく無い場合も少なくないわけで、そういう「お客さん」相手に
「専門家しか『なるほど!』と膝をうたないような表現」はありえないわけですね。
あくまでエンターテイメントであって音楽として考えるからおかしなことになるわけです。
古典を基準に音楽として真面目に相手にしようとすることそのものが間違いなんですね。
なにか状況がやっとわかったような気がしますよ。

西洋音楽作曲家による西洋楽器を使いつつも日本の伝統音楽を
真摯に受け止め、消化し、新たに創造した作品のほうが
「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」よりもはるかに古典邦楽を感じることが出来るのも、
要するに「ターゲットたる客層」の違いによるところが大きいわけですね。
こういう音楽を聴くような人たちは、真剣に音楽と対峙する人々ですから、
創作側も真剣になると、まあ単純なことだったわけです。

単純にエンターテイメントとして消費してどんどん消えていく消耗品と、
音楽作品を同列にして考えることは非常におろかだった、と。

ただ願うことは、少数ながら古典と真面目に向き合っている邦楽関係者の方々、
そういう方たちには演奏はもちろんですが、消耗品ではない、
きちんとした音楽作品の創作にも向き合っていただきたいな、と。
新作の創作が無い音楽は衰退する、というのは
世界のどの地域のどんなジャンルの音楽でも共通しています。
博物館に保存しているだけではダメなんですよ。

楽人である芝祐靖氏はこう述べています。
「自分に作曲の才能が無いことはわかっているが、
雅楽存続のために創作をしている」。