2013年10月2日水曜日

補筆のあり方

作曲者の死とか、何らかの事情で作曲が中断されたまま残された作品は多いですね。
それらは、同時代、あるいは後世の研究者や作曲家によって補筆されたりします。
ドニゼッティの最後のオペラ、 「アルバ公爵」もその一つです。

この作品はすでにいろいろな人の手で補筆されています。
弟子であったサルヴィ、指揮者のシッパースなど、
録音もそれなりにありますし、とりわけ珍しい曲というわけではありません。
しかし、本来フランス語のグランド・オペラとして構想された曲ですが、
フランス語のものはなかったんですね。
それで、 バッティステッリ補筆版のこのCDを買いました。



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そういうわけなんで、 バッティステッリの補筆は特に気にせず購入したのです。
1枚目はドニゼッティが完全に書いている、第1幕、第2幕、ということで、
なんということなく聴いていたのですが、
2枚目、いきなり二度のトロンボーンの和音によるアッコンパニャート が始まり、
なにごとか、と思い、解説を読んでみました。
サルヴィやシッパースは出来の良し悪しはともかく、
「ドニゼッティっぽい」補筆を心掛けているわけです。
ですが、 現代音楽作曲家でもあるバッティステッリは開き直って、
まったく自分のスタイルで補筆しているんです。
上述のアッコンパニャートなんて開幕のファンファーレに過ぎません。
ドニゼッティが残した部分との様式的祖語はもう確信犯的にやっています。

あまりにふざけすぎているんじゃないかなあ、と、最初は思いましたが、
次第にこう思い始めました。
この補筆だと、ドニゼッティがどの部分を残していたのか、
どの部分がバッティステッリの補筆の部分なのか、
もう聴いただけですぐにわかるわけです。
考えようによっては、これは良心的な補筆といえるのではないか?と

第4幕のフィナーレなんてすさまじいですよ。ほんの一部分のヴァイオリンパートだけ
ドニゼッティがスケッチ残していたんだな、ってすぐわかります。
ほかのパートがカオスですから(笑)。

補筆っていうものは結局どうしたって本物にはなれないわけです。
様式的に合わせようと努力したって、どうしても本人のものじゃない。
これは当たり前のことです。
じゃあ、開き直って、こういう風に、どこがオリジナルでどこが補筆か、
はっきり分かるようにしておく方が、あるいは良心的なのかもしれません。
補筆というもののあり方を考えさせる補筆でした。

2013年1月13日日曜日

頑張れドニゼッティ研究者

最近はロッシーニばかり聴いていて、
久しぶりにドニゼッティを聴いてみました。

「ゴルコンダの王女アリーナ」




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1828年初演作品ですから、ロッシーニはもうパリにいる時代ですね。
ロッシーニのパリ時代の諸作品は、たしかに絢爛なパリの様式を
感じることができますが、ロマン派というには、
私はなにか戸惑いがあります。
どこか、古典的均整を強く感じたりします。
有名な「ウィリアム・テル」のシンメトリー構造などその最たるものでしょう。

そういうロッシーニをずっと聴いて慣れてきて、
ますますロッシーニの天才を痛感していましたが、
上記ドニゼッティのあまり有名でない作品を聴いて、
ドニゼッティはロマン派なのだなあ、と強く感じました。

まあ、これは演奏者たちがあまりにも熱演過ぎる、ということも
関係があるのかもしれません。
20世紀初演のライヴ録音なのです。

この作品はしかし、「セミセリア」といういささか古い形式です。
ロッシーニでいいますと、「どろぼうかささぎ」や「チェネレントラ」 などが
「セミセリア」のジャンルに属します。
これがまた説明困難なんですが、セリアとブッファの中間、というわけでもないんですよ。
むしろ様式的なジャンルとしての分類でして、
典型的な筋立てとしては、いわゆる「救出もの」があります。
セミセリアではありませんが、お話的には、
モーツァルトの「後宮からの誘拐」やベートーヴェンの「フィデリオ」を
思い出してください。ブッファ的な役柄
(前者のオスミンや後者のロッコ)、
セリア的な役柄(前者のセリム、後者のドン・フェルナンド)、
そしてヒロインと主役ですね。
こうした筋立てが好まれた時期があり、それにふさわしい様式として
セミセリアというものが現れたようです。

ドニゼッティはしかし、この「セミセリア」の最後の巨匠ともいえる人で、
晩年の「シャモニーのリンダ」も「セミセリア」、しかも救出ものです。
それはドニゼッティの気質と関連していたかもしれません。

さて、上述の「アリーナ」ですが、
ロッシーニのパリ時代初期と同時期とは思えないほど、
ロマン的芳香がかなり強いのでおどろきました。
パッパーノなどはヴェルディの書法に決定的影響を与えたのは
ドニゼッティではないか、と言っていますが、そうかもしれませんね。
反対に、ドニゼッティ初期はロッシーニの亜流といわれることもありますが、
確かに影響は避けられないでしょうが、亜流とは思えません。

ところでこの作品、こんなにマイナーな作品なのに、
フィナーレが3種類もあるそうです。
ここでの演奏は、時代的に一番ふさわしと思われる
ロンド・フィナーレを採用しています。

さて、ドニゼッティについて考えてみました。
ロッシーニにはペーザロという聖地があり、
ゼッダら献身的で勤勉な研究者と、
ロッシーニ歌手たちによって、
最新の研究成果をロッシーニ音楽祭という舞台で
毎年世に演奏を送り出しているという、
すばらしい循環が出来上がっています。

対して、ドニゼッティは、生地ベルガモで音楽祭をやって、
いろいろ復活上演などされていますが、
ロッシーニほど研究は進んでいない状況です。

たとえば、彼のもっとも有名な作品の一つ「ランメルモールのルチア」、
その狂乱の場の調性が本来の調性(複雑に変化します)に戻されたのは
実に最近のことで、それまではト長調で統一されているような
印象に改変されていました。
さらには、この狂乱の場でのフルートとハープのカデンツァは
まったく第三者の創作であるばかりでなく、
そもそもオブリガート楽器はフルートではなく、
機械式のグラスハーモニカということで、
そういう本来の形に戻されたのも21世紀になってからです。

重要なのは、「もっとも有名な作品でさえそうした状況」ということです。
ロッシーニの作品が次々と最新研究の成果を踏まえて
クリティカル・エディションを刊行し、ペーザロで上演する、
そうしたことがどんどん行われているのに、
ドニゼッティはまだまだこれからなんです。
そして、「ルチア」でわかるとおり、彼の作品は
かなり改変されているようです。

ベルガモもペーザロのように、ドニゼッティ研究・演奏のメッカと
なることを祈りたいと思います。
がんばれ、ドニゼッティ研究者!

2012年12月27日木曜日

旋律美の功罪

投稿の題をご覧になって、
ん?旋律は美しいにこしたことはないじゃないか、
とお考えのみなさん、私もそう思っていました。
器楽作品などではそれでいいのかもしれませんが、
ヴェルディの中期作品を考えるうえで、
結構「功罪」両面がポイントになるのではないかと、
いろいろ考えることがあったので、書いてみます。

ヴェルディ中期といわず、全ヴェルディ作品でも
人気の高い「リゴレット」「トロヴァトーレ」「トラヴィアータ」の
3作品ですが、この3作はヴェルディが究極的に
大アリア形式(シェーナ‐カヴァティーナ‐シェーナ‐カバレッタの定型)を
追求した最後の作品であることは指摘されているところですが、
逆に考えれば、つまりは究極的に旋律美を追求した、
とも考えられるわけです。

実際、この3作品は、それぞれの方向性・性格の違いはあれど、
ヴェルディの中でもとりわけ印象深い旋律にあふれていることは
共通して言えると思うのです。

いいことじゃないか、というのはそうなんですが、
リゴレットに関して、ある方と話していてハッとしたのです。

「リゴレットは笑われなくちゃいけないんですよ、
どんなに真面目に怒っても憐れみを求めても。
実際に歌ってみて気が付きました。」

リゴレットは道化です。
その呪われた宿命からは逃れられない、
楽譜を読み込むとそうとしかとれない、というのです。

モンテローネ伯爵を嘲笑の的にしたリゴレットは、
まさに「呪い」のように、自身にも不幸が降りかかるわけで、
愛娘ジルダを返せ、という彼の怒りの様子は、
音楽が迫真なだけにその旋律にまかせて歌ってしまう罠があるのですね。
確かに、リゴレット自身は真面目に怒らなければならない。
でも、観客は廷臣たち同様、それをみて笑う気持ちにさせなければならない。
そうなんです、オペラは演劇なんですよね。

ヴェルディが果てしない同情を寄せて書いた
リゴレットの旋律は、その美しさゆえに、
それだけでドラマを作り出してしまう。
それは歌い手にとっては落とし穴でもあるということなのです。

「トラヴィアータ」ではどうか。
ヴィオレッタに息子と別れてくれ、と迫るジェルモン。
第2幕の2人の二重唱の胸に迫ることといったらありません。
わたしはたびたび泣きそうになります。
ところで、演劇的にこの場面を考えたらどうか?

「かわいそうに、お泣き」と言うジェルモンは、
はたして本心からそう言っているのか。
この二重唱の旋律があまりにも真に迫りすぎ、
私たちはほとんど他の可能性を考えられなくなります。
が、歌詞だけで考えると、
息子と別れてほしい一心で、
みせかけの同情をよせている、
という、あまり考えたくない可能性も排除できないわけです。

ヴェルディの旋律はあまりにも美しく、同情に満ちています。
が、あまりにも美しいため、演劇的にも
美しい解釈しか許されない、というのはどうなんでしょうね?

興味深いことにこの3作以降ヴェルディは大アリア形式と決別します。
私が考えるにこの3作はヴェルディが旧来の形式と旋律美を
徹底的に追求し、そしてそれでどこまで演劇的に
核心に迫れるか、その実験だったように思えてきました。

上記の2つの例だけでも、あまりにも美しい旋律は、
演劇的な解釈の幅を狭めてしまう、
そんな「罪」の部分をヴェルディも感じたのではないでしょうか。



なにかのきっかけでお立ち寄りいただいたみなさん、
今年一年ありがとうございました。

また来年もよろしくお願いいたします。
それではよいお年を。