2012年3月6日火曜日

忘れがたき原体験:ワルター指揮の「大地の歌」

誰しも子供だった経験があるというのに、大人になるとなぜか「子供に分かるわけがない」とか
なにか上から目線になるのはなぜなんでしょうね?

私の成人してからの経験から言っても、子供の感受性は恐るべきものがあると思います。
少なくとも、「世評」とか「定評」とか念頭にない分、大人よりはるかに本質を見極める。
練習用の三味線で練習していたら「今日は変な音だね」といわれた知人、
子供は尺八でも地無し管の音を好んだりするという経験が私もあります。

だから、邦楽教育でも明治以降のヘンな洋楽っぽい曲を
邦楽器で演奏させるのはもってのほかだと思うのです。
すくなくともそんな曲を喜んで演奏しているのは大人だけです。聴いているのもね。
子供は本質を見極める目は大人より鋭いのだから、古典をしっかり聞かせたり、
演奏させたりするべきだと思います。曲が難しいというのは、
これまた子供の恐るべき適応能力をなめた考え方です。
洋楽器では結構な難曲を弾く子供なんていくらでもいることを思い出しましょう。

さて、なんでこんな話をしたかというと、ワルター指揮のマーラー作曲「大地の歌」、
これが私の原体験の一つなんです。
小学生の時、小学生なりにいろいろ悩んでいたことがあって、
マーラーのようなちょっと病んだ音楽が好きでした。
誕生日やクリスマスにカセットを買ってもらってちょっとづつ聴いていました。
なにしろ曲が長いし、FMでもなかなか放送しなかったので
(まだいわゆる「マーラーブーム」前でした)、
こういう方法しかなかったんですね。

で、友人がマーラーのLPを親が持っているといってくれまして、
そのときいろい聴きました。なかでもワルターの「大地の歌」は格別の印象を受けました。
子供は子供なりにいろいろ感じるものなんですよね。

で、大人になり、ワルターの「大地の歌」には数種類あることを知りました。
あの時聴いていたのはどれだったのか、ちょっとわからないだろうなと思っていました。


これだったんですよ。驚くべきことに聴いた瞬間に わかりました。間違いなくこれです。

子供時代はいわば毎日が新体験の連続で、時間の経過を長く感じ、
経験を重ねた大人は、時間の経過を早く感じるといいます。
この演奏を聴いて小学校の頃、いろいろ悩んでいたり考えていたり、
日々過ごしていたことまでいろいろとよみがえってきました。
そしてそのことを思い出し、やはり子供はあなどれないと。
まあ、今の私が成長していないだけなのかもしれませんが。
子供の感受性おそるべし、と我が事ながら感じています。

2012年2月28日火曜日

ピリオド楽器による「トロヴァトーレ」

一部で話題のピリオド楽器によるヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」
まだ一度しか聴いていないので消化不良の部分もありますが、とりあえず感想など。

ピリオド楽器演奏ではくどいくらい考証について記述があるものですが、
なんとオケのメンバー表すらないのは驚きました(苦笑)。
おかげで類推するしかありません。

しかし、かなり考証されていることは伺えました。
当時の管楽器先進国フランスとの関係を考えれば、
トロヴァトーレ作曲時点よりやはり古めの管楽器の音色なのは当然でしょう。
そして、トランペット、ホルンの音量がそれほどではないため、
実はヴェルディが重要な部分で愛用している
トロンボーンのペダルトーンがはっきり聴き取れます。
たしかにこういうバランスを前提にオーケストレーションしていたのだろうと思いました。

しかし、イタリアオペラはなんといっても歌手。
歌唱法ですが、完全なベルカントではありませんし、
古楽唱法でもありません。ヴィブラートを使うところでは使います。
はっきりと法則性を見いだせたのはヴェルディが重要な言葉を強調するとき
愛用したオクターブ下降の部分。この時は必ずヴィブラートをかけています。

個別の歌手の声量はですから、それほど大きいわけではないのです。
しかし前述のとおりオケ自体の音量とのバランスではこれで十分です。
オビには「アズチェーナ役のナエフも迫力満点」とありますが、
これはナエフがアズチェーナという異質な役割のため意図的なのか、
あるいはコンセプト理解不足なのか、まだ判然としませんが、
ヴィブラートをかけてベルカントに近い歌い方をしているだけです。
ですから結果的に声量が出て迫力があるように聞こえますね(苦笑)。

それから「トロヴァトーレ」というとみなさん気になると思われる
カバレッタ「見よ、恐ろしい火を」について書かなければなりませんね。

まずモダン楽器演奏のはなしなのですが、
唐突ですが、私は「オペラ歌手」としてのパバロッティは、
どんな役柄でもすべて「パバロッティ」という役柄を演じるので嫌いなのですが、
「声を出す器」としての能力を認めるにはやぶさかではありません。
ああ、こんな書き方する時点で本当に嫌っていることに気が付いた(汗)。

で、パバロッティがマンリーコを歌っているディスクでの件のカバレッタ、
トランペットとの相乗効果でものすごい輝きなんですよ。
おそらくモダン楽器演奏でこのカバレッタをここまで効果を出せるのは彼くらいかも。

しかし、ピリオド楽器演奏となると話は変わります。
意外なことにトランペットはそれほど目立ちません。
といいますか、木管楽器、弦楽器、テノールの声というアンサンブルでの
音色がすばらしい…これもこういうアンサンブルを本来意図していたのでしょうね。
でも、モダン楽器のトランペットはあまりにも音量があり過ぎるため、
パバロッティのような歌手との共演でしか光り輝けないようなものに変質してしまっている。

それから、前述のとおり、ヴィブラートは本当にここぞというところでしか使いませんので、
アリアでのノンヴィブラートでのオケと声の美しさは想像以上です。
あ、アズチェーナ以外ですけど(笑)。
本当になんで彼女だけこんなにベルカントに近いのかなあ。
役柄がアズチェーナだけに意図的なのかどうか深読みせざるを得ないじゃないですか。

とりあえず、ヴェルディもピリオド楽器で演奏する意義は十分あることはわかりました。
声を含めたオーケストレーションの音色が全く変わってしまっています。
つくづくヴェルディはそういう「声」を含めてオーケストレーションした人だったのだと
改めて強く感じました。ワーグナーとはそこがやはり違うんです。

あと、番号制オペラにはその良さがあると私は思います。
ライブだと特にそれがわかりますね。
特に、シェーナ→カヴァティーナ→カバレッタ の三段ロケットで盛り上がって、
興奮のままに拍手が沸き起こるのが好きなんです。
ワーグナーは「藝術とは絶えざる連続体だ」と言ったそうですが、
なるほど、番号制オペラから脱却したのも当然ですね。

2012年2月27日月曜日

ムソルグスキー受容:天才と優等生

私がクラシック音楽を聴くきっかけになったのは、
ピアノ版(断じて管弦楽編曲版ではない!)の「展覧会の絵」でした。
多分、この作品の、ピアノ原典版でなければ、ここまでクラシックにはまることはなかったでしょう。

ムソルグスキーは間違いなく天才です。
ただ、天才にありがちなことに、規則の類からかなり外れています。
19世紀の当時にあって、それを嘆いた作曲家は少なくなかった(才能を認めているからこそ)。
友人のR=コルサコフがいろいろと余計なことをやっているように見えるのも、
それは現代の視点から、もはやムソルグスキーの原典が
当時ほどにはいびつに感じられなくなってきているからなのです。

有名なところでは、代表作のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」。
ムソルグスキー自身の原典でも2つの版(1869年稿と1872年稿)が存在します。
そして困ったことに別の曲といえるほどに音楽が違い、
ゲルギエフのように両稿を全曲録音するやり方、
ロストロポーヴィチのように重複しない音楽はすべて演奏するやり方、
アバドのように、1872年稿をベースに、筋に一貫性を保持したままで済む部分は
1869年稿からももってくるやり方、とさまざまな対処が行われています。
そのうえにさらにR=コルサコフ改訂版が存在するわけです。

R=コルサコフ版は確かにムソルグスキーのオリジナルと比較すると
かなり凡庸で、原典版を聴きなれてから勉強のために聴いた私には
とても辛い思いをしてやっと全曲を聴いたというのが正直なところでした。
ただ、この「凡庸さ」が、この作品を普及させるために必要だったことは疑うべくもないのです。

そもそもなぜムソルグスキーが第2稿を書いたかというと、
検閲で「女性の見せ場がほとんどなくオペラとして上演するのにふさわしくない」
というわけのわからないクレームがついたからでした。
ただ、検閲でひっかからなくても、第1稿をこの当時上演してもとても成功はしなかったでしょう。
そこで第2稿ではいわゆる「ポーランドの場」を挿入して、グランド・オペラの様式に
近づけようとする努力を見せ、それはそれで成功していると思います。
ただしムソルグスキーは第2稿では、作品途中で主役のボリスを殺してしまうのです!
そして、そのあとの混乱がロシアの不幸を表すかのようで、
何とも言えない余韻を残し、この作品が傑作たるゆえんとなっていると思うのですが、
R=コルサコフはそれは当時の基準としてはあまりにも前衛的すぎると考えたのでしょう、
彼の改訂版ではボリスの死で幕を閉じるやり方に変え、
正真正銘のグランド・オペラとなっている、といえるでしょう。

そもそもバスが主役のオペラはそんなに多くありません。
私も今すぐに思い浮かぶのはマスネの「ドン・キショット(ドン・キホーテ)」くらいです。
ロシアのバスの大歌手・シャリアピンは当然「ボリス・ゴドゥノフ」を当たり役にしていました。
その後もロシアにはボリス・クリストフ等名歌手が多く生まれ、
「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続けました。
そこでは明確にバス歌手が主役であるというR=コルサコフ版の需要は大きかったのです。
そして結果的に「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続け、オペラ劇場の必須演目の一つとして
確固たる地位を築いたのです。

さて、ここでみたようにR=コルサコフ版の果たした役割も疑う余地なく大きかった…。
そして、ムソルグスキーのくすんだ独特の管弦楽配置と違い、
管弦楽の魔術師の一人であるR=コルサコフは、さすがに見晴らしの良い、
お手本のような管弦楽配置をしています。

この辺りは、「禿山の一夜」 の二人の版を比較するとよくわかると思います。
きらびやかでディズニー映画のようなR=コルサコフのそれと、
より土俗的で、今にも何かこの世ならぬものが現われてきそうな
ムソルグスキーのそれは、全く別の作品です。
どちらを好むかはやはり好みなのでしょう。

それは 「ボリス・ゴドゥノフ」でも同じです。R=コルサコフ版は私は耐えられないですが、
好きな人まで否定するつもりはないです。それなりの歴史的役割を担ってきた実績もあります。

そして「展覧会の絵」。これもラヴェルを代表格としてさまざまな管弦楽版 が存在します。
お分かりだと思いますが、私はラヴェルの編曲は好きではないです。
あれは近代フランスの管弦楽作品であって、断じてロシアの、ましてや
ムソルグスキーの作品ではないと思います。
ただ、受容史を考えたとき、これは 「ボリス・ゴドゥノフ」や「禿山の一夜」の
R=コルサコフ版と同じことがそのまま言えるわけです。
おそらく二人とも、ムソルグスキーの天才は正当に評価していたと思います。
そのうえで、「このまま演奏されないよりは…」と、優等生ならではの「添削」を行ったのです。

現代では原典版が聴けるかというと、それがそう簡単な問題でもないのです。
現在一般的な原典版というのはラム校訂版なのですが、これとてかなり問題があります。
「展覧会の絵」でいっても、自筆譜と曲名の段階で違うものがあることで推測できると思います。
ムソルグスキーの新全集は1997年に遅れに遅れてやっと第1巻が出版されました。
実はこれからが本当のムソルグスキーを知る時代になるのでしょう。