2012年2月28日火曜日

ピリオド楽器による「トロヴァトーレ」

一部で話題のピリオド楽器によるヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」
まだ一度しか聴いていないので消化不良の部分もありますが、とりあえず感想など。

ピリオド楽器演奏ではくどいくらい考証について記述があるものですが、
なんとオケのメンバー表すらないのは驚きました(苦笑)。
おかげで類推するしかありません。

しかし、かなり考証されていることは伺えました。
当時の管楽器先進国フランスとの関係を考えれば、
トロヴァトーレ作曲時点よりやはり古めの管楽器の音色なのは当然でしょう。
そして、トランペット、ホルンの音量がそれほどではないため、
実はヴェルディが重要な部分で愛用している
トロンボーンのペダルトーンがはっきり聴き取れます。
たしかにこういうバランスを前提にオーケストレーションしていたのだろうと思いました。

しかし、イタリアオペラはなんといっても歌手。
歌唱法ですが、完全なベルカントではありませんし、
古楽唱法でもありません。ヴィブラートを使うところでは使います。
はっきりと法則性を見いだせたのはヴェルディが重要な言葉を強調するとき
愛用したオクターブ下降の部分。この時は必ずヴィブラートをかけています。

個別の歌手の声量はですから、それほど大きいわけではないのです。
しかし前述のとおりオケ自体の音量とのバランスではこれで十分です。
オビには「アズチェーナ役のナエフも迫力満点」とありますが、
これはナエフがアズチェーナという異質な役割のため意図的なのか、
あるいはコンセプト理解不足なのか、まだ判然としませんが、
ヴィブラートをかけてベルカントに近い歌い方をしているだけです。
ですから結果的に声量が出て迫力があるように聞こえますね(苦笑)。

それから「トロヴァトーレ」というとみなさん気になると思われる
カバレッタ「見よ、恐ろしい火を」について書かなければなりませんね。

まずモダン楽器演奏のはなしなのですが、
唐突ですが、私は「オペラ歌手」としてのパバロッティは、
どんな役柄でもすべて「パバロッティ」という役柄を演じるので嫌いなのですが、
「声を出す器」としての能力を認めるにはやぶさかではありません。
ああ、こんな書き方する時点で本当に嫌っていることに気が付いた(汗)。

で、パバロッティがマンリーコを歌っているディスクでの件のカバレッタ、
トランペットとの相乗効果でものすごい輝きなんですよ。
おそらくモダン楽器演奏でこのカバレッタをここまで効果を出せるのは彼くらいかも。

しかし、ピリオド楽器演奏となると話は変わります。
意外なことにトランペットはそれほど目立ちません。
といいますか、木管楽器、弦楽器、テノールの声というアンサンブルでの
音色がすばらしい…これもこういうアンサンブルを本来意図していたのでしょうね。
でも、モダン楽器のトランペットはあまりにも音量があり過ぎるため、
パバロッティのような歌手との共演でしか光り輝けないようなものに変質してしまっている。

それから、前述のとおり、ヴィブラートは本当にここぞというところでしか使いませんので、
アリアでのノンヴィブラートでのオケと声の美しさは想像以上です。
あ、アズチェーナ以外ですけど(笑)。
本当になんで彼女だけこんなにベルカントに近いのかなあ。
役柄がアズチェーナだけに意図的なのかどうか深読みせざるを得ないじゃないですか。

とりあえず、ヴェルディもピリオド楽器で演奏する意義は十分あることはわかりました。
声を含めたオーケストレーションの音色が全く変わってしまっています。
つくづくヴェルディはそういう「声」を含めてオーケストレーションした人だったのだと
改めて強く感じました。ワーグナーとはそこがやはり違うんです。

あと、番号制オペラにはその良さがあると私は思います。
ライブだと特にそれがわかりますね。
特に、シェーナ→カヴァティーナ→カバレッタ の三段ロケットで盛り上がって、
興奮のままに拍手が沸き起こるのが好きなんです。
ワーグナーは「藝術とは絶えざる連続体だ」と言ったそうですが、
なるほど、番号制オペラから脱却したのも当然ですね。

2012年2月27日月曜日

ムソルグスキー受容:天才と優等生

私がクラシック音楽を聴くきっかけになったのは、
ピアノ版(断じて管弦楽編曲版ではない!)の「展覧会の絵」でした。
多分、この作品の、ピアノ原典版でなければ、ここまでクラシックにはまることはなかったでしょう。

ムソルグスキーは間違いなく天才です。
ただ、天才にありがちなことに、規則の類からかなり外れています。
19世紀の当時にあって、それを嘆いた作曲家は少なくなかった(才能を認めているからこそ)。
友人のR=コルサコフがいろいろと余計なことをやっているように見えるのも、
それは現代の視点から、もはやムソルグスキーの原典が
当時ほどにはいびつに感じられなくなってきているからなのです。

有名なところでは、代表作のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」。
ムソルグスキー自身の原典でも2つの版(1869年稿と1872年稿)が存在します。
そして困ったことに別の曲といえるほどに音楽が違い、
ゲルギエフのように両稿を全曲録音するやり方、
ロストロポーヴィチのように重複しない音楽はすべて演奏するやり方、
アバドのように、1872年稿をベースに、筋に一貫性を保持したままで済む部分は
1869年稿からももってくるやり方、とさまざまな対処が行われています。
そのうえにさらにR=コルサコフ改訂版が存在するわけです。

R=コルサコフ版は確かにムソルグスキーのオリジナルと比較すると
かなり凡庸で、原典版を聴きなれてから勉強のために聴いた私には
とても辛い思いをしてやっと全曲を聴いたというのが正直なところでした。
ただ、この「凡庸さ」が、この作品を普及させるために必要だったことは疑うべくもないのです。

そもそもなぜムソルグスキーが第2稿を書いたかというと、
検閲で「女性の見せ場がほとんどなくオペラとして上演するのにふさわしくない」
というわけのわからないクレームがついたからでした。
ただ、検閲でひっかからなくても、第1稿をこの当時上演してもとても成功はしなかったでしょう。
そこで第2稿ではいわゆる「ポーランドの場」を挿入して、グランド・オペラの様式に
近づけようとする努力を見せ、それはそれで成功していると思います。
ただしムソルグスキーは第2稿では、作品途中で主役のボリスを殺してしまうのです!
そして、そのあとの混乱がロシアの不幸を表すかのようで、
何とも言えない余韻を残し、この作品が傑作たるゆえんとなっていると思うのですが、
R=コルサコフはそれは当時の基準としてはあまりにも前衛的すぎると考えたのでしょう、
彼の改訂版ではボリスの死で幕を閉じるやり方に変え、
正真正銘のグランド・オペラとなっている、といえるでしょう。

そもそもバスが主役のオペラはそんなに多くありません。
私も今すぐに思い浮かぶのはマスネの「ドン・キショット(ドン・キホーテ)」くらいです。
ロシアのバスの大歌手・シャリアピンは当然「ボリス・ゴドゥノフ」を当たり役にしていました。
その後もロシアにはボリス・クリストフ等名歌手が多く生まれ、
「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続けました。
そこでは明確にバス歌手が主役であるというR=コルサコフ版の需要は大きかったのです。
そして結果的に「ボリス・ゴドゥノフ」は演奏され続け、オペラ劇場の必須演目の一つとして
確固たる地位を築いたのです。

さて、ここでみたようにR=コルサコフ版の果たした役割も疑う余地なく大きかった…。
そして、ムソルグスキーのくすんだ独特の管弦楽配置と違い、
管弦楽の魔術師の一人であるR=コルサコフは、さすがに見晴らしの良い、
お手本のような管弦楽配置をしています。

この辺りは、「禿山の一夜」 の二人の版を比較するとよくわかると思います。
きらびやかでディズニー映画のようなR=コルサコフのそれと、
より土俗的で、今にも何かこの世ならぬものが現われてきそうな
ムソルグスキーのそれは、全く別の作品です。
どちらを好むかはやはり好みなのでしょう。

それは 「ボリス・ゴドゥノフ」でも同じです。R=コルサコフ版は私は耐えられないですが、
好きな人まで否定するつもりはないです。それなりの歴史的役割を担ってきた実績もあります。

そして「展覧会の絵」。これもラヴェルを代表格としてさまざまな管弦楽版 が存在します。
お分かりだと思いますが、私はラヴェルの編曲は好きではないです。
あれは近代フランスの管弦楽作品であって、断じてロシアの、ましてや
ムソルグスキーの作品ではないと思います。
ただ、受容史を考えたとき、これは 「ボリス・ゴドゥノフ」や「禿山の一夜」の
R=コルサコフ版と同じことがそのまま言えるわけです。
おそらく二人とも、ムソルグスキーの天才は正当に評価していたと思います。
そのうえで、「このまま演奏されないよりは…」と、優等生ならではの「添削」を行ったのです。

現代では原典版が聴けるかというと、それがそう簡単な問題でもないのです。
現在一般的な原典版というのはラム校訂版なのですが、これとてかなり問題があります。
「展覧会の絵」でいっても、自筆譜と曲名の段階で違うものがあることで推測できると思います。
ムソルグスキーの新全集は1997年に遅れに遅れてやっと第1巻が出版されました。
実はこれからが本当のムソルグスキーを知る時代になるのでしょう。

2012年2月12日日曜日

オペラに対してのサブカルチャー:バレエ

私は小学生の時から西洋クラシックを聴いてきたのですが、
その時から変わらず好きな作曲家というのがあります。

チャイコフスキーなんです、実は。
私を知る人からは「?」という反応を必ずいただきます(苦笑)。
なにしろ、ロマン派が苦手な私が、ロマン派の権化のような存在の中の一人を
こんなにも愛しているわけですから。

さて、最近私はロッシーニ、メルカダンテ、ドニゼッティあたりの
いままで聴いてこなかったオペラをまとめて毎日聴いていたので、
口直しといいますか、他のものを聴きたい気分になったわけです。
そこでチャイコフスキーというわけですが、
彼は自分の事を変わることなく 「オペラ作曲家」として自負・自認していたということです。
客観的にも、「マンフレッド交響曲」を含めた完成した交響曲の数より
実は完成したオペラの方が数が多いんですよね。
「エフゲーニー・オネーギン」ばかり有名というのも残念な話です。
バレエの話に入る前に彼のオペラも少し見てみましょう

Tchaikovsky Edition
実は、こまごま分売のオペラを集めるより効果的ということもあり、
とりあえずこれを挙げてみます。Brilliant Classics お得意の超廉価BOXです。
しかし、これ、侮れないんですよ、内容が。
交響曲なんてどうせ他の音源があるし、とかあまり期待していなかったのですが、
ロジェストヴェンスキー指揮の後期3大交響曲や、
フェドセーエフ指揮の第1番、第3番なんて、
この曲で不可能とも思えるユニークな解釈を聞かせてくれます。

オペラに関しましては、私は地方劇場の演奏って結構好きなのですが、
このBOXでいえば、「エフゲーニー・オネーギン」と「イオランタ」がそうですね。
いかに地元に密着した活動をしているか、できればライブで聴きたかったのですが、
セッションですが、なかなか興味深い演奏です。

ほかのオペラはスヴェトラーノフ指揮の2作以外は歴史的録音です。
歌手をオンマイクにしてのミキシングですが、これが録音の古さより
演奏の素晴らしさをまず感じるもので、本当にお得です。

私はチャイコフスキーのマイナーオペラの中では
「オルレアンの少女」と「チャロデイカ」が好きなのですが、
これはBOX以外の演奏も紹介しておきましょう。

・「チャロデイカ」
Enchantress


「Enchantress」というのは英訳ですね、「Чародейка」が原題で、
「男を惑わす魔性の女(魔女)」くらいの意味です。
カットなしだと4時間近い大作ですが、チャイコフスキーらしくサービス満点で
最後まで飽きることはありません。ただしストーリーもまた彼らしく
どこにも救いのない陰惨なものです。
このディスクはMelodiyaの音源で、上記で紹介した最近復刻されて
ちょっと話題になったカイキンの指揮のものとの聴き比べにはもってこいです。
リマスターが丁寧で、とても聴きやすくなっています。
ロシア的なメロディーが多くあり、陰惨なストーリーの割には
ラスト以外はそうストレスを感じなくて済むのは、4時間という長丁場、ありがたいですね。

・「オルレアンの少女」
ありがたいことに、日本語字幕付き映像がリリースされています。


ジャンヌ・ダルクはさすがにいろいろ音楽作品にも題材になるのですが、
この作品でチャイコフスキーはフランス・グランド・オペラのスタイルを意識的に取り入れて、
バレエもとりいれているのですね。
いかに当時フランス・オペラが無視できない存在だったかわかります。

さて、ここでバレエの話に入るわけです。毎度毎度前置きが長くて済みません。
知っている方は知っている有名な事実(?)ですが、ロシアの上流階級は
フランス文化の影響下にありました。
宮廷ではフランス語もよく使われていたくらいですし、
19世紀のロシアの小説には、フランス語の引用が多いこともご存じの方は多いでしょう。
ただ、劇場だけはイタリア・オペラの牙城で、チャイコフスキーが
「オルレアンの少女」で見せたフランスへの接近というのはその意味でも興味深いのです。

先にチャイ子フスキー彼自身は「オペラ作曲家」としての自認が終生変わらずあった、と
述べましたが、そんな彼がバレエに向かったのはなぜなのでしょうか?

彼は友人の音楽評論家、ヘルマン・ラロッシュに興味深い手紙を書いています。
そこで彼は「オペラの現実的な制約を逃れた幻想的な音楽劇」の可能性を探りたい、
と述べています。これ、なにかを想起させませんか?
例えば現代日本において、実写ドラマにできないことを、一段低いサブカルチャーとされている
アニメーションにおいて表現する、そんな構図に似ていると私は思うのです。

チャイコフスキーの先駆者といえばドリーブがいます。「コッペリア」と「シルヴィア」は
チャイコフスキーもリスペクトしていたそうですね。
いわば、オペラの一部分であったバレエを一つのジャンルとして打ち立てたのです。
そして、その芸術的完成者は疑うことなく、チャイコフスキーでしょう。
「白鳥の湖」におけるある種の悲劇性とドラマは、まだオペラに負けないジャンルを
打ち立てるんだ、という気負いとも読み取れます。
そして「眠れる森の美女」において、おそらく近代バレエの礎が築かれた。
「くるみ割り人形」にはもはやストーリーらしいストーリーはありません。
こうしてみていくと、チャイコフスキーが単に3つのバレエを書いただけでなく、
さまざまな可能性を模索していたことがはっきりとわかると思います。

そして、現代においては音盤の問題がまだ付きまといます。
たとえば「白鳥の湖」は、実際は3枚にしないと完全全曲は収録不可能です。

偉大な例外がプレヴィンとロンドン響による2枚組です。
いまさら語りつくされた演奏をくどくど語りませんが、
SACD化されますのでそれを紹介しておきましょう。
チャイコフスキー:白鳥の湖
問題は、海外でBOX化されているプレヴィンの3大バレエの廉価BOX,
「眠れる森の美女」を2枚に収める関係でいくつかカットしていることです。
その関係もあるのでしょう、日本盤としては、3大バレエのうち、この作品だけ
現役版がありません。
多少高額になってもいいので、カットなし3枚組でCD化される日が来ることを祈ります。

2012年2月5日日曜日

学校での邦楽教育の教材と魔術師・松平頼則氏

学校教育で邦楽器の教育が義務付けられてしばらくたちますが、
学校の音楽教師が大体においてまっとうに演奏できないのですから、
これはなかなか難しい問題なのです。

みなさんご存じの「さくら」は、幕末に箏の手ほどき曲として作られたもので、
その意味では、近世邦楽の音階である、いわゆる都節音階に対しては、
素晴らしい教材として現在でも使えると思います。

さて、邦楽といってもいろいろあるわけですが、雅楽は厳密には「邦楽」には入らない
そうですが、教育としてはやっておくべきものだと思います。
しかし手ほどき曲が問題になってくるのですね。

雅楽の手ほどき曲というと「五常楽」が使われることが多いようです。
実際にこういうDVDも出ていて、独学できるようになっています。
篳篥・笙・龍笛・五常楽にチャレンジ 雅楽入門 [DVD]

しかしこれは近世邦楽でいえば、例えば地歌ならいきなり「黒髪」から入るようなものです。
全般的に邦楽には極端に手ほどき曲が不足しているのです。
最初からコンサートピースを習うことができるのは、良いことでもありますが、
初修の曲だからとおろそかに考える人も出てくるのが問題です。

さて、「君が代」は皆さんもご存知ですね。
いろいろ思想的なことはとりあえずおいておいて、旋律としてこれは、
壱越律旋の手ほどきとしてうってつけなのです。
君が代演奏拒否の教師が理由として、
「雅楽音階の曲を西洋和声で平均律のピアノでは演奏したくない」ということを挙げていて、
これは確かに一理あるんですよ。

そこで、歌詞の問題もクリアする方法、また邦楽器教育の一つの方法として、
君が代を雅楽器で演奏する教育を行うというのはどうかと思うのです。
おそらく、雅楽音階においての手ほどきとして、近世邦楽音階における「さくら」と同じくらい
優れた教材であると私は考えます。
皆さん歌詞の事で議論しているのでしょう?よくわかりませんが。
でも旋律としてこんなすばらしい教材を使わないのはもったいない。
唄うのが嫌な教師・生徒は雅楽器を演奏すればいい。
割と真面目な提案です。

その後に「五常楽」や「越天楽」に進めば、自然に上達することでしょう。

雅楽特選
ところで、越天楽を題材に西洋音楽の話もしておきましょう。
まず、「越天楽」は「渡物」といって、3つの調子のものが存在します。
雅楽「越天楽」三調
このCDは非常に素晴らしい音盤で、その3つの調子(平調・盤渉調・黄鐘調)の
「越天楽」がおさめられているだけでなく、平調「越天楽」では「残楽(のこりがく)」という
特殊な演奏形態で演奏されています。
さらにお得なことに、「五常楽」も収められているのです。
「雅楽を何か聴いてみたい」という方には、まずこれをお勧めしたいです。

さて、私が個人的に峰崎勾当に並ぶ日本の大作曲家と考えているのは、
松平頼則(まつだいらよりつね)氏です。
「松平」という姓からわかるとおり、そういう家柄の人で、
音列による西洋作曲技法と、雅楽の要素を魔法のように融合させた
とんでもない技法によって、多くの作品を残しています。
「越天楽」と関係するのはこちら。
松平頼則:ピアノとオーケストラのための主題と変奏/ダンス・サクレとダンス・フィナル/左舞/右舞
この「主題と変奏」はカラヤンが指揮した唯一の日本人作品としても有名ですが、
その主題は「越天楽」、しかも普段よく聞く平調のものではなく、盤渉調のものです。
「越天楽」はもともと盤渉調だったといわれ、雅楽に関してとんでもない知識をお持ちだった
松平頼則氏のこと、これは意図的なものでしょう。
この作品はまだ氏の本当に初期の作品で、雅楽を解体し、音列と融合して
再構築するのちの作風はまだ出ていませんが、それだけに初めて聴くにはなじみやすいでしょう。
松平頼則作品集
ここに収められている「春鴬囀」 はむろん、雅楽四大曲の一つのことです。
雅楽「春鶯囀(しゅんのうでん) 」はこちら。
峰崎勾当以来の大作曲家ということは、西洋音楽作曲家としては間違いなく
日本最大の作曲家でありますから、氏の音楽を正当に評価するためにも、
雅楽の教育というのは大切ではないかと思います。

追記:こちらに新しい記事もあります
野平一郎による松平頼則:ピアノ作品選集

2012年2月2日木曜日

オペレッタにヨコハマ登場

いままでクラシックではいわゆるシリアス系のものばかりで、 オペレッタはあまり聴いてきませんでした。 まあ時間もお金も有限ですから、どうしても優先するものが他にあったことと、 やっぱりこういう軽いものは、という先入観があったのも否めません。

私が大学で尺八を始めて、邦楽の世界に触れていろいろ感性の変化があったのですが、 たとえば地唄には「作もの」という、滑稽な題材を歌詞にしたジャンルがあります。 学生時代は「作もの」は大嫌いだったんですが、丸くなってきたのか、 この滑稽な題材の中に人情味を感じさせるところがだんだん好きになってきまして、 西洋音楽でもオペレッタも聴いてみようかな、という気分になってきたのです。

私はピリオド楽器が大好きですので、最初に聴いたのは、 ミンコフスキ指揮の、ピリオド楽器によるオッフェンバックの2作品、 「美しきエレーヌ」
「ジエロシュタイン公爵夫人」から入りました。


これらは、歌詞だけより映像で観たいなあ、という思いもありますが、
とりあえず音盤でも大変楽しかったです。
オーケストレーションもオリジナルを尊重しているので、
オペラに慣れたものからすると、大変いびつな編成にも思えますが、
それはそういうものなのだと徐々に慣れていくんでしょう。
一応映像も紹介しておきます。
オッフェンバック:喜歌劇《美しきエレーヌ》パリ・シャトレ座2000年 [DVD]
Offenbach: La Grande-Duchesse de Gerolstein [DVD] [Import]
「ジエロシュタイン公爵夫人」のDVDはall region のはずなのですが、
日本のamazonはUSから輸入する関係か、リージョン1になっていますね…。
いちおうジャケット写真ということで。

そういうわけで、オペレッタというと、あまり聴いたことがないなあ、と思っていたのですが、 こんな都合のいいBOXセットがあります。
「Zauber der Operette(オペレッタの魔法)」
これは100枚組で、有名なヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」とか「ジプシー男爵」から、
本当に名前も聞いたことがないような作曲家の作品までさまざまです。
モノラルですが、戦後のドイツ国民を勇気づけるための放送音源で、
さすがにドイツの優秀録音技術、鑑賞には全く支障がありません。

さて、先日届きましたので、最初の作品、
パウル・アブラハム[Paul Abraham(1892-1960)]の
「ヴィクトリアと軽騎兵(VIKTORIA UND IHR HUSAR)」から聴いてみました。

なにしろこのBOXはライナーがドイツ語のみで、英語がかろうじてわかるという程度の
私にはちょっと敷居が高いのですが、いろいろ耳慣れた単語が出てくるのです。
曲が始まってすぐに「リムスキー=コルサコフが云々」とやっていて、
いったいなんだろうと思っていたら、そのうち、
「aus YOKOHAMA,aus PARIS」
と始まって、いよいよ何の話だかワカラナくなってきます。

まあ、作曲者の生没年からすると、日本の横浜はやはり神戸や長崎と並んで国際都市
としてドイツでは認識されていたんだろうということはわかります。


オペラの歌詞でさえ入手は容易ではないですから、
こんなマイナーオペレッタの歌詞は絶望的だろうな、と思いつつ、
このBOXを聴いてどんな発見があるだろうか、と、少し楽しみでもあります。