邦楽の教育の頂点は、藝大の邦楽科だということは間違いないでしょう。
ただ、いろいろ、変なところがあるように思います。
まず、地歌・筝曲。ピッチが442固定なんだそうですね。
いやまあ、箏と三絃だけの合奏ならそれでもいいんでしょうけど、
尺八が入っても442固定というのはどうなんですか?
精密機械のごとく変貌した西洋の現代の楽器でも、
たとえば中学・高校での吹奏楽部で、
季節、天候など関係なしにピッチ固定なんてやってるところはないでしょう?
すくなくともわたしの中学・高校時代は、
合奏練習するときは指揮者が季節、天候を考慮して
基準ピッチを指示するところから始まっていましたけど…。
まして、素朴な楽器である尺八が、季節、天候関係なく
どんなときでも442固定で合奏するって変な話ですね。
まあ、できなくはないんですよ。
冬や悪天候のときはカリぎみに、
夏や好天のときはメリぎみに、
全体を通して吹き続ければいいんですね。
でも、やっぱり私はおかしいように思います。
そもそも邦楽なら雅楽基準の430でしょう。
それならまだわかります。
あと、西洋和声の授業も必修らしいのですが、
はじめのころは邦楽科の生徒は2度の和音ばかりで
回答して、教授がいい加減にしろ、って怒ったら、
だってこっちのほうが奇麗ですよ、と、みんな真顔で答えた、
というエピソードもあり、教えるほうも、本当にこの人たちに
教えていいのか恐ろしくなったらしいですが、
たとえば、藝大出身の能管奏者・一噌幸政師は、
普通なら7度や7度半になる音程を、完全八度に補正して
吹くと、ちょっと話題になったらしいです。昔のことですが。
今は、プロの若手藝大出身笛奏者にきいたら、
「みんな音感わるいんですよ、能楽囃子はイ短調!」
(注:能楽囃子は基本的に黄鐘(A)基調です)
と断言してびっくりしたことがあります。
でも、かりに旋律がイ短調だったとして、
能楽囃子がイ短調というからには、
機能和声に基づいているということじゃないですか?
「音階」あるいは「旋法」だけの問題ではなくなってしまうと思うんです。
たとえば、地歌の「夕顔」の出だしを機能和声的に考えるとします。
主音がDの場合、BとEにフラットがつくのはどうしようもない違いですが。
あと、導音は常に長二度ですのでCに♯はつきません。
これらの臨時記号を念頭におくと、
D D B♭A A A GE♭ D
I I V DIII6VI7 II7V7 I
これが仮に西洋音楽だとするとこうなりますかね。
まあ、終止形が短二度下降が決まりなので無理やりです。
でも明らかにおかしいことは、邦楽をよく知らない方でもわかるはずです。
こんな伴奏がついたら、もう邦楽じゃないですよ。
ただ、上述のプロの藝大出身の若手奏者の「能楽囃子はイ短調説」が
正しいとすると、究極的にはほかの邦楽も機能和声に
支配されているということになる。
昔の和声の授業のエピソードとの比較で、
もしかして今の藝大では古典でもこんな教え方をしているんでしょうか?
だとしたら、現在致命的に古典を演奏できる奏者がいないことは
なるほどと、理解できます。
いいとか悪いとかはさておき、藝大を出た箏や尺八奏者は、
だいたい3か月ごとに新作の初演をやっていて、
とても古典にまで手が回らないそうです。
そうした新作は、西洋音楽の手法で作曲されていますから、
もしかして藝大では西洋和声を中心に教えているのではないかと
勘繰ってしまいます。冒頭のピッチの442固定といい、
いまどき中学校のブラスバンドでもやらないようなことが
まかり通っていることを知って、現状を知りたいなと思っています。
2012年9月26日水曜日
2012年9月20日木曜日
ディーリアスあれこれ
今年はディーリアス生誕150周年ということで、
地味ながらいろいろとディスクも出ています。
名盤BOXを中心に概括してみます。
トマス・ビーチャム/イングリッシュ・ミュージック(6CD限定盤)

(Amazon) (HMV)
これは実質的にディーリアス5枚組に
1枚のオマケがついているようなものです(笑)。
いうまでもなく、ビーチャムはディーリアスの
熱烈な擁護者で、録音が簡単でなかったこの時代に、
現代音楽をこれだけ大量に残すこと自体すごいことです。
このBOXのリマスタリングは非常によく、
モノラル期の録音の良さを感じさせてくれます。
私がディーリアスを真面目に聴き始めたのはつい最近で、
伝説的なビーチャム指揮のディーリアスがまとめて
入手できることができ、後発組のメリットが活かせました。
演奏の感想などは後述のまとめで。
ディーリアス生誕150年記念ボックス(18CD限定盤)


(Amazon) (HMV)
これはさすがEMI、ディーリアス録音に賭けているなあ、と
圧倒されます。ビーチャム、バルビローリの大御所ふたりから、
メレディス・デービス、チャールズ・グローブスなど、
ディーリアス演奏史がそのままBOXになった感じです。
歌詞がないのが残念なのですが
(EMIの廉価オペラシリーズでは、歌詞対訳をCD-ROMで付属しているので
同じEMIの廉価盤ということでなおさら惜しい)、
3つのオペラをはじめ、「人生のミサ」「レクイエム」をはじめ、
管弦楽と声楽の大規模作品が一望できます。
本当に、歌詞がついていれば…。
私は最初にディーリアスを聴いたのは、ここにある数々の演奏なので、
個人的思い入れがあるため、客観的判断ができるかわかりませんが、
いきなりこれだけの集成を入手できるというのはすごい時代です。
ディーリアス・エディション マッケラス&ウェールズ・ナショナル・オペラ管、他(8CD)

(Amazon) (HMV)
対して、イギリスのもうひとつの雄、DeccaのBOXです。
これは惜しくも亡くなったマッケラスを中心にしています。
マッケラスは、ほかのオペラの録音の構想も持っていたらしく、
働き盛りでの急逝は惜しまれてなりません。
演奏の感想は後述のまとめで。
(Amazon) (HMV)
そして、これはある意味目玉です。
画像がまだ登録されていないのでこのかたちで紹介します。
これは、ディーリアスが全盲となったのち、
口述筆記で作曲をした、その共同作業者、
フェンビーの指揮が中心の、Unicorn-Kanchanaからかつて
リリースされていた7枚の「Delius Collection」 のBOX化です。
このレーベルはすでになく、長らく入手不可だったものを、
Heritage が出してくれました。
さて、そろそろそれぞれの感想など。
ビーチャムはどうやらディーリアスを印象派風にとらえ、
かつての印象派演奏の手法を援用しているように感じます。
おそらく、現代音楽としてのディーリアスを紹介したかったのでしょう。
それが、長らく受け継がれているように思いました。
それがEMIのBOXです。
対して、ヤナーチェクの権威としても知られるマッケラス、
彼は、声楽作品でより違った視点を持っているように感じます。
言葉というものはとても生命力がある。
それはヤナーチェクの生命力の根源ですが、
声楽作品に名作の多いディーリアスでもどこかその
生命力を発揮しているような気がします。
はたしてこれが、この先のディーリアス演奏にどう影響するか、
ちょっと注目してみたいところです。
そしてフェンビー。彼はあくまで作曲家であって、
職業指揮者ではありません。
そのためなのか、印象派風の雰囲気はあまり出しません。
そのかわり、霧が晴れたように、作品の骨格がはっきりと
姿を現すんです。これはびっくりしました。
ディーリアスの作曲手法は基本的には変奏技法です。
「アパラチア」や「ブリッグの定期市」のように、
はっきりした変奏曲形式を使っているものはもちろん、
たえず前段の変奏が連続して結果的に構造的に堅固なものに
なっているんです。これはフェンビーの指揮で初めて気が付きました。
まあ時代もあるかもしれません。80年代になると、かつてのように
印象派の作品だから、と、輪郭をぼやかすほうがよい、というような
風潮はなくなってきていました。
だから、フェンビーがどこまで意図的だったかはわかりません。
でも、結果として、ディーリアスが堅固な形式感覚によって
作曲をしていたということをまざまざとみせつける。
面白いと思います。
さて、ディーリアスのBOXがこれだけでても、まだまだ
初期オペラをはじめ(BBCとArabesqueに音源はあるんです!)、
出ていない作品がたくさんあります。
Stoneはディーリアスの歌曲の集成を進めています。
まだまだ未知の作品、演奏を楽しめそうですね。
地味ながらいろいろとディスクも出ています。
名盤BOXを中心に概括してみます。
トマス・ビーチャム/イングリッシュ・ミュージック(6CD限定盤)
(Amazon) (HMV)
これは実質的にディーリアス5枚組に
1枚のオマケがついているようなものです(笑)。
いうまでもなく、ビーチャムはディーリアスの
熱烈な擁護者で、録音が簡単でなかったこの時代に、
現代音楽をこれだけ大量に残すこと自体すごいことです。
このBOXのリマスタリングは非常によく、
モノラル期の録音の良さを感じさせてくれます。
私がディーリアスを真面目に聴き始めたのはつい最近で、
伝説的なビーチャム指揮のディーリアスがまとめて
入手できることができ、後発組のメリットが活かせました。
演奏の感想などは後述のまとめで。
ディーリアス生誕150年記念ボックス(18CD限定盤)
(Amazon) (HMV)
これはさすがEMI、ディーリアス録音に賭けているなあ、と
圧倒されます。ビーチャム、バルビローリの大御所ふたりから、
メレディス・デービス、チャールズ・グローブスなど、
ディーリアス演奏史がそのままBOXになった感じです。
歌詞がないのが残念なのですが
(EMIの廉価オペラシリーズでは、歌詞対訳をCD-ROMで付属しているので
同じEMIの廉価盤ということでなおさら惜しい)、
3つのオペラをはじめ、「人生のミサ」「レクイエム」をはじめ、
管弦楽と声楽の大規模作品が一望できます。
本当に、歌詞がついていれば…。
私は最初にディーリアスを聴いたのは、ここにある数々の演奏なので、
個人的思い入れがあるため、客観的判断ができるかわかりませんが、
いきなりこれだけの集成を入手できるというのはすごい時代です。
ディーリアス・エディション マッケラス&ウェールズ・ナショナル・オペラ管、他(8CD)
(Amazon) (HMV)
対して、イギリスのもうひとつの雄、DeccaのBOXです。
これは惜しくも亡くなったマッケラスを中心にしています。
マッケラスは、ほかのオペラの録音の構想も持っていたらしく、
働き盛りでの急逝は惜しまれてなりません。
演奏の感想は後述のまとめで。
Delius Collection(7CD)
そして、これはある意味目玉です。
画像がまだ登録されていないのでこのかたちで紹介します。
これは、ディーリアスが全盲となったのち、
口述筆記で作曲をした、その共同作業者、
フェンビーの指揮が中心の、Unicorn-Kanchanaからかつて
リリースされていた7枚の「Delius Collection」 のBOX化です。
このレーベルはすでになく、長らく入手不可だったものを、
Heritage が出してくれました。
さて、そろそろそれぞれの感想など。
ビーチャムはどうやらディーリアスを印象派風にとらえ、
かつての印象派演奏の手法を援用しているように感じます。
おそらく、現代音楽としてのディーリアスを紹介したかったのでしょう。
それが、長らく受け継がれているように思いました。
それがEMIのBOXです。
対して、ヤナーチェクの権威としても知られるマッケラス、
彼は、声楽作品でより違った視点を持っているように感じます。
言葉というものはとても生命力がある。
それはヤナーチェクの生命力の根源ですが、
声楽作品に名作の多いディーリアスでもどこかその
生命力を発揮しているような気がします。
はたしてこれが、この先のディーリアス演奏にどう影響するか、
ちょっと注目してみたいところです。
そしてフェンビー。彼はあくまで作曲家であって、
職業指揮者ではありません。
そのためなのか、印象派風の雰囲気はあまり出しません。
そのかわり、霧が晴れたように、作品の骨格がはっきりと
姿を現すんです。これはびっくりしました。
ディーリアスの作曲手法は基本的には変奏技法です。
「アパラチア」や「ブリッグの定期市」のように、
はっきりした変奏曲形式を使っているものはもちろん、
たえず前段の変奏が連続して結果的に構造的に堅固なものに
なっているんです。これはフェンビーの指揮で初めて気が付きました。
まあ時代もあるかもしれません。80年代になると、かつてのように
印象派の作品だから、と、輪郭をぼやかすほうがよい、というような
風潮はなくなってきていました。
だから、フェンビーがどこまで意図的だったかはわかりません。
でも、結果として、ディーリアスが堅固な形式感覚によって
作曲をしていたということをまざまざとみせつける。
面白いと思います。
さて、ディーリアスのBOXがこれだけでても、まだまだ
初期オペラをはじめ(BBCとArabesqueに音源はあるんです!)、
出ていない作品がたくさんあります。
Stoneはディーリアスの歌曲の集成を進めています。
まだまだ未知の作品、演奏を楽しめそうですね。
2012年9月9日日曜日
洋楽?邦楽?
私が評価する「現代邦楽」はどんなものがあるか?
という質問をされて、考えているうちにいろいろわからなくなってきました。
「邦楽器を使った作品」ということであれば、
諸井誠さんの「竹籟五章」、武満徹さんの「秋庭歌一具」
あたりは評価しているけれども、これは洋楽の作曲家の作品。
ということで、下山一二三さんの作品などはどうかな、と思ったのですが、
今更になって調べてみたら、なんと松平頼則さんの弟子筋にあたる方。
もともと下山一二三さんの作品を知るきっかけは、
師匠の息子さんのCD(尺八とピアノのための作品集)で、
聴いていて、正直作品の質が…と思っていたのですが、
おひとり、下山一二三さんの作品が際立っていたので注目したことでした。
不思議なことに、あまり現代音楽界隈で下山一二三さんは話題に上らず、
邦楽の作曲家と誤解していました。
完全に無知ゆえでお恥ずかしいのですが…。
しかし、ここにきて、ちょっと自分でもわからなくなってきたことがあります。
楽器の区別が絶対的な「洋楽」「邦楽」の区別の基準なのか?
と。
いわゆる邦楽器専門の「現代邦楽」作品は、
楽器こそ確かに邦楽器ですが、語法は西洋音楽です。
たとえ、和風な味付けをしてあっても、
それはロマン派における国民楽派的なものの域を超えるものではないです。
それはたとえ天才・宮城道雄とて例外ではありません。
宮城道雄は形式的には手事物などもかなり残していますし、
それなりに伝統に気を配っていたことはうかがえるのですが、
やはりそういう時代だったのでしょう。
もちろん、それは質とはまた違う話で、
宮城道雄が天才だったのは、そうした創作の仕方でも
質を保てたところでしょう。
対して、洋楽の作曲家の中で、
たとえば私が峰崎勾当以来の日本の大作曲家と
考えている松平頼則さん、膨大な作品を残していますが、
初演すらされていない作品も多く、私の所持CDは4枚だけ、
他に聴いたことがあるのはピアノ組曲「美しい日本」と、
先日ラジオ放送されたコンチェルティーノだけ。
それでも、全てが高水準を保っているのは驚くべきことで、
洋楽器を使い、洋楽の語法を使いながらも、
巧みに雅楽などの要素を消化している、ちょっと考えられない作風です。
はたして、これを洋楽とだけ評価していいものだろうか?と。
先日演奏会で聴いた「美しい日本」、各種伝統音楽を題材にしています。
雅楽はもちろん、平曲、筝曲、民謡…。
それらの「国民楽派的」利用ではなく、構造そのものを利用しているわけです。
平曲については勉強不足で、ちょっとわからなかったのですが、
平曲をご存じのかたは「あれは間違いなく平曲」だと
おっしゃっていたのが印象的でした。
そうだろうな、と思うのは、この組曲の終曲、「箏曲風の終曲(茶音頭)」が
見事に手事物形式で、初めて聴くにもかかわらず、
「あ、手事に入った」「チラシだな」「ここから後唄か」と、
不思議なことに体が反応していたからです。
茶音頭の具体的な旋律の引用があったかどうか、それはわかりません。
あるにしても、おそらく分解されて知覚できなくなっていると思われます。
これは本当に不思議なことで、科学的説明を求められると困るのですが…。
こういう音楽を、洋楽器を用いているから、とか、
洋楽の作曲家であるから、という理由で「洋楽」と
単純にジャンル分けしていいのかな、と
前から思っていたのですが、まだ松平頼則さんの場合は洋楽器を使っている、
ということで、仕方がないかも、と思っていました。
しかし、下山一二三さんの場合には、邦楽器を使った作品が
それなりの数あります。実際無知ゆえとはいえ、
邦楽系の作曲家と誤解していましたし。
こうした場合、もう「洋楽の作曲家だから」と、
邦楽から切り離すのはどうなんだろう、と。
弟子筋にあたるとはいえ、松平頼則さんの高雅な書法と、
下山一二三さんの強烈な情念とは対極です。
しかし、これだけ面白い曲を書いていた人が
松平頼則さんの門下ということを知り、妙に納得したりもしました。
国際的に評価が高い細川俊夫さん、彼は私はどうも苦手です。
たとえば箏、三絃、尺八のための「断章Ⅰ」。
これは細川俊夫さんの80年代の特徴的な語法の作品ですが、
伝統との断絶を痛烈に感じます。
また同じく80年代の「観念の種子」。
これは声明と雅楽のための作品ですが
古来の五行思想を持ち出したりしていますが、
まったく細川俊夫さん流にアレンジされていて、
こちらもまったく伝統音楽の香りはみじんも感じない。
私は何しろ、作曲などという高度な創作行為に関して素人ですので、
何がここまで松平頼則さんと細川俊夫さんをして
伝統を感じるかどうかの差異を生じさせたのか、
専門的見地から説明はできないのですが…。
お二人とも、伝統音楽をそのまま使うのではなく、
自分なりに消化したうえで創作されているので、
表面的に和風な味付けをしているというわけではないのです。
これはもう、一応伝統音楽の片隅にいる者としての嗅覚です。
少々話がずれました。
さて、邦楽器を使えばそのまま「邦楽」になるのか、
洋楽器を使いつつも「邦楽」ということは絶対にありえないのか、
洋楽とか邦楽っていうのはなんなのでしょう?
という質問をされて、考えているうちにいろいろわからなくなってきました。
「邦楽器を使った作品」ということであれば、
諸井誠さんの「竹籟五章」、武満徹さんの「秋庭歌一具」
あたりは評価しているけれども、これは洋楽の作曲家の作品。
ということで、下山一二三さんの作品などはどうかな、と思ったのですが、
今更になって調べてみたら、なんと松平頼則さんの弟子筋にあたる方。
もともと下山一二三さんの作品を知るきっかけは、
師匠の息子さんのCD(尺八とピアノのための作品集)で、
聴いていて、正直作品の質が…と思っていたのですが、
おひとり、下山一二三さんの作品が際立っていたので注目したことでした。
不思議なことに、あまり現代音楽界隈で下山一二三さんは話題に上らず、
邦楽の作曲家と誤解していました。
完全に無知ゆえでお恥ずかしいのですが…。
しかし、ここにきて、ちょっと自分でもわからなくなってきたことがあります。
楽器の区別が絶対的な「洋楽」「邦楽」の区別の基準なのか?
と。
いわゆる邦楽器専門の「現代邦楽」作品は、
楽器こそ確かに邦楽器ですが、語法は西洋音楽です。
たとえ、和風な味付けをしてあっても、
それはロマン派における国民楽派的なものの域を超えるものではないです。
それはたとえ天才・宮城道雄とて例外ではありません。
宮城道雄は形式的には手事物などもかなり残していますし、
それなりに伝統に気を配っていたことはうかがえるのですが、
やはりそういう時代だったのでしょう。
もちろん、それは質とはまた違う話で、
宮城道雄が天才だったのは、そうした創作の仕方でも
質を保てたところでしょう。
対して、洋楽の作曲家の中で、
たとえば私が峰崎勾当以来の日本の大作曲家と
考えている松平頼則さん、膨大な作品を残していますが、
初演すらされていない作品も多く、私の所持CDは4枚だけ、
他に聴いたことがあるのはピアノ組曲「美しい日本」と、
先日ラジオ放送されたコンチェルティーノだけ。
それでも、全てが高水準を保っているのは驚くべきことで、
洋楽器を使い、洋楽の語法を使いながらも、
巧みに雅楽などの要素を消化している、ちょっと考えられない作風です。
はたして、これを洋楽とだけ評価していいものだろうか?と。
先日演奏会で聴いた「美しい日本」、各種伝統音楽を題材にしています。
雅楽はもちろん、平曲、筝曲、民謡…。
それらの「国民楽派的」利用ではなく、構造そのものを利用しているわけです。
平曲については勉強不足で、ちょっとわからなかったのですが、
平曲をご存じのかたは「あれは間違いなく平曲」だと
おっしゃっていたのが印象的でした。
そうだろうな、と思うのは、この組曲の終曲、「箏曲風の終曲(茶音頭)」が
見事に手事物形式で、初めて聴くにもかかわらず、
「あ、手事に入った」「チラシだな」「ここから後唄か」と、
不思議なことに体が反応していたからです。
茶音頭の具体的な旋律の引用があったかどうか、それはわかりません。
あるにしても、おそらく分解されて知覚できなくなっていると思われます。
これは本当に不思議なことで、科学的説明を求められると困るのですが…。
こういう音楽を、洋楽器を用いているから、とか、
洋楽の作曲家であるから、という理由で「洋楽」と
単純にジャンル分けしていいのかな、と
前から思っていたのですが、まだ松平頼則さんの場合は洋楽器を使っている、
ということで、仕方がないかも、と思っていました。
しかし、下山一二三さんの場合には、邦楽器を使った作品が
それなりの数あります。実際無知ゆえとはいえ、
邦楽系の作曲家と誤解していましたし。
こうした場合、もう「洋楽の作曲家だから」と、
邦楽から切り離すのはどうなんだろう、と。
弟子筋にあたるとはいえ、松平頼則さんの高雅な書法と、
下山一二三さんの強烈な情念とは対極です。
しかし、これだけ面白い曲を書いていた人が
松平頼則さんの門下ということを知り、妙に納得したりもしました。
国際的に評価が高い細川俊夫さん、彼は私はどうも苦手です。
たとえば箏、三絃、尺八のための「断章Ⅰ」。
これは細川俊夫さんの80年代の特徴的な語法の作品ですが、
伝統との断絶を痛烈に感じます。
また同じく80年代の「観念の種子」。
これは声明と雅楽のための作品ですが
古来の五行思想を持ち出したりしていますが、
まったく細川俊夫さん流にアレンジされていて、
こちらもまったく伝統音楽の香りはみじんも感じない。
私は何しろ、作曲などという高度な創作行為に関して素人ですので、
何がここまで松平頼則さんと細川俊夫さんをして
伝統を感じるかどうかの差異を生じさせたのか、
専門的見地から説明はできないのですが…。
お二人とも、伝統音楽をそのまま使うのではなく、
自分なりに消化したうえで創作されているので、
表面的に和風な味付けをしているというわけではないのです。
これはもう、一応伝統音楽の片隅にいる者としての嗅覚です。
少々話がずれました。
さて、邦楽器を使えばそのまま「邦楽」になるのか、
洋楽器を使いつつも「邦楽」ということは絶対にありえないのか、
洋楽とか邦楽っていうのはなんなのでしょう?
2012年9月8日土曜日
ロッシーニの「歴史的名盤」は信用するべからず!
このブログで、事あるごとに書いてきましたが、
ヴェルディやワーグナーはともかく、
ロッシーニに関しては、過去のどんな名歌手よりも、
現代のスペシャリストの方が断然いいです。
最近「セミラーミデ」の2つの演奏で再確認したので書いてみます。
「セミラーミデ」はロッシーニのイタリア時代最後の大作にして傑作です。
非常な難曲でもあり、復活させたといわれ、「歴史的名盤」 とも言われる
サザーランドとマリリン・ホーンのコンビ、ボニング指揮のDECCA盤で、
私は最初に聴きました。
廉価版ですが、対訳もついていて、お得だと思ったからです。
ですが、ああ、なんと浅はかだったことか!
この盤は問題だらけです。ですからリンクも貼りません。
まず、女性2人、サザーランドとマリリン・ホーンは、
なんとか装飾音形もこなしていますが、それだけなんです。
それ以上のことはなにもできていない。
劇性も愉悦もありません。
でも、男声陣はもっと悲惨です。
概してロッシーニのテノールは難しく、
それゆえに現代ではいわゆる「ロッシーニ・テノール」という
専門歌手がいるわけですが、
この録音当時、1966年でそれは望むべくもなかったわけで。
聴いているだけで苦痛なレベルです。
そして、大規模なカットがあります。
およそ全曲の三分の二くらいの長さまで刈り込まれています。
それだけならまだしも、この曲の最大の見せ場、
ラストが改変されています。
ネタバレになるので大まかに言えば、ハッピーエンドなのですが、
これは致命的です。
ラストのアルサーチェの即位を喜ぶ民衆の合唱、
これには一抹の陰りがあるんですよ。
ヴェルディは、個人の悲劇と民衆の喜びを重ね合わせて
幕とすることを得意としましたが、
このラストの合唱はいわばその萌芽です。
さらに言えば、ボニングの指揮。
この人、凡庸だとかやる気がないとかいろいろ言われることが多いですが、
少なくともこの録音はそういわれても仕方がないと、
後述のゼッダ盤を聴いて思いました。
さて、もう最初に聴いただけで憤懣やるかたなく、
1992年のロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける
ゼッダ指揮のライヴ録音(廃盤)を中古で入手しました。
ゼッダの指揮は遅いどころか、歌手の技量が低く、
体感的にも重いボニング盤よりも快活で、かといって
スピードを出しすぎることなく、まさに愉悦を感じます。
それにもかかわらず、およそ4時間という長さなんです!
改めて「セミラーミデ」は本来こうした大作だったのだと実感。
でも、ぜんぜん長いと感じませんよ!
歌手陣は、丁寧に歌っていますし、技量もあります。
現代のロッシーニ歌手ならもっと上かもしれませんが、
不満を抱くほどではないです。上出来です。
ライヴ録音ということで、 最高の音質というわけではないですが、
私はむしろ、ライヴならではの熱気の方が長所になっていると
感じました。個人的にはライヴ録音好きなんです。
これは完全ノーカットの上、ラストの改竄もされていない
きちんとした本来の歌詞です。
アルサーチェの絶望をしらない民衆の合唱、
そうすると、ときおり混じる陰りが活きてくるわけです。
ゼッダの指揮はやはりよいです。
この演奏を聴いて、ボニング盤がいかに凡庸な指揮だったかわかりました。
恐怖の表現、勇ましさの表現、愛の表現、絶望の表現、
そして愉悦。すべてにおいてさすがと思わせられました。
それにしても、ゼッダ盤がある現代においてなお、
ボニング盤が「名盤」扱いされているのは、
どうにも理解に苦しみます。
やはりロッシーニにおいては、新しい演奏の方がよく、
「歴史的名盤」というのはアテにならないと、
何度目かわかりませんがまた確認した次第です。
ヴェルディやワーグナーはともかく、
ロッシーニに関しては、過去のどんな名歌手よりも、
現代のスペシャリストの方が断然いいです。
最近「セミラーミデ」の2つの演奏で再確認したので書いてみます。
「セミラーミデ」はロッシーニのイタリア時代最後の大作にして傑作です。
非常な難曲でもあり、復活させたといわれ、「歴史的名盤」 とも言われる
サザーランドとマリリン・ホーンのコンビ、ボニング指揮のDECCA盤で、
私は最初に聴きました。
廉価版ですが、対訳もついていて、お得だと思ったからです。
ですが、ああ、なんと浅はかだったことか!
この盤は問題だらけです。ですからリンクも貼りません。
まず、女性2人、サザーランドとマリリン・ホーンは、
なんとか装飾音形もこなしていますが、それだけなんです。
それ以上のことはなにもできていない。
劇性も愉悦もありません。
でも、男声陣はもっと悲惨です。
概してロッシーニのテノールは難しく、
それゆえに現代ではいわゆる「ロッシーニ・テノール」という
専門歌手がいるわけですが、
この録音当時、1966年でそれは望むべくもなかったわけで。
聴いているだけで苦痛なレベルです。
そして、大規模なカットがあります。
およそ全曲の三分の二くらいの長さまで刈り込まれています。
それだけならまだしも、この曲の最大の見せ場、
ラストが改変されています。
ネタバレになるので大まかに言えば、ハッピーエンドなのですが、
これは致命的です。
ラストのアルサーチェの即位を喜ぶ民衆の合唱、
これには一抹の陰りがあるんですよ。
ヴェルディは、個人の悲劇と民衆の喜びを重ね合わせて
幕とすることを得意としましたが、
このラストの合唱はいわばその萌芽です。
さらに言えば、ボニングの指揮。
この人、凡庸だとかやる気がないとかいろいろ言われることが多いですが、
少なくともこの録音はそういわれても仕方がないと、
後述のゼッダ盤を聴いて思いました。
さて、もう最初に聴いただけで憤懣やるかたなく、
1992年のロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける
ゼッダ指揮のライヴ録音(廃盤)を中古で入手しました。
ゼッダの指揮は遅いどころか、歌手の技量が低く、
体感的にも重いボニング盤よりも快活で、かといって
スピードを出しすぎることなく、まさに愉悦を感じます。
それにもかかわらず、およそ4時間という長さなんです!
改めて「セミラーミデ」は本来こうした大作だったのだと実感。
でも、ぜんぜん長いと感じませんよ!
歌手陣は、丁寧に歌っていますし、技量もあります。
現代のロッシーニ歌手ならもっと上かもしれませんが、
不満を抱くほどではないです。上出来です。
ライヴ録音ということで、 最高の音質というわけではないですが、
私はむしろ、ライヴならではの熱気の方が長所になっていると
感じました。個人的にはライヴ録音好きなんです。
これは完全ノーカットの上、ラストの改竄もされていない
きちんとした本来の歌詞です。
アルサーチェの絶望をしらない民衆の合唱、
そうすると、ときおり混じる陰りが活きてくるわけです。
ゼッダの指揮はやはりよいです。
この演奏を聴いて、ボニング盤がいかに凡庸な指揮だったかわかりました。
恐怖の表現、勇ましさの表現、愛の表現、絶望の表現、
そして愉悦。すべてにおいてさすがと思わせられました。
それにしても、ゼッダ盤がある現代においてなお、
ボニング盤が「名盤」扱いされているのは、
どうにも理解に苦しみます。
やはりロッシーニにおいては、新しい演奏の方がよく、
「歴史的名盤」というのはアテにならないと、
何度目かわかりませんがまた確認した次第です。
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