2012年11月25日日曜日

ロシア文学と地歌・筝曲

今更ながらにドストエフスキーにはまりまして、
3年を費やし、いわゆるドストエフスキー五大長編、
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」や、
ほかのいくつかの作品も読みました。
こんな圧倒的感銘を与えてくれる作品を
今まで読んでいなかったことは、
恥ずかしいことでもありますが、
この年になってもまだ楽しいことが世の中にたくさんある、
と、前向きに考えています。

ところで、私は引っ越しが多く、散逸したものも多いのですが、
両親の青年時代に読んでいた本を多く受け継ぎ、
その意味では読書代は助かりました。
ただし、古い本ですので、旧字体、旧仮名遣いですが。
これはそれでも、ドストエフスキーを読むには幸いしました。
書き散らかしたような面もなきにしもあらずの
彼の文章は、読みやすい翻訳ですと、
意味を深く考えられないので、
読むのにひと手間かかる旧字体、旧仮名遣いは
じっくり意味を受け止めつつ読むにはかえってよかったようです。

さて、本題に入りましょう。
上述の通り、古いドストエフスキー翻訳といえば、
米川正夫氏の翻訳で、少なくとも五大長編は
全て氏の翻訳で読みました。

そして、邦楽にあまり縁のない方は疑問を持たないかもしれませんが、
「米川」という姓は比較的珍しく、
「まさか地歌・筝曲の演奏家を多数輩出している米川家と
関係あるのではないだろうか?」と、気になって調べてみますと、
関係あるどころか、当事者じゃありませんか!

これはびっくりです。
地歌・筝曲の米川家というと、米川文子さん、米川敏子さんは
すでに現在2代目であり、その他大勢演奏家を生んだ
名門といっていいでしょう。
そういう家系ですから、 米川正夫氏も、
幼いころから、箏、三絃の手ほどきは受けていたようです。
しかも、かなりの腕前だったようです。
同好会のようなものを主催し、「残月」を演奏した、という話があります。

「残月」というのは、日本を代表する作曲家、峰崎勾当の代表作の一つで、
演奏時間20分を超える大曲です。
それだけではなく、演奏が本当に大変なんです。
これは「手事もの」といわれる、中間部に長い器楽間奏部をもつ歌曲ですが、
まず、唄部分が、ほかの手事ものと異なり、ずっとスローなままです。
これを聴かせるには大変な唄の実力が必要です。
さらに手事、この曲の手事は、五段からなる大規模なもので、
しかも唄部分と激しい対照をなす、きわめて華やかなものです。
ここでは楽器の腕が厳しく問われます。
そして、演奏至難という以前に、この曲の格は非常に高く、
ただ「演奏できる」という程度の人間に演奏が許される曲ではないのです。

「残月」の箏の手付はいろいろあるのですが、
米川正夫氏の兄にあたる琴翁の手付は米川家系の演奏家では
ひろく演奏されています。
それだけ米川家ではいっそう大切でしょうから、なおさらです。

なお、 米川正夫氏の主催していた「桑原会」には
内田百閒なども参加していたようです。
内田百閒のほうもこちらでも面白いエピソードがあり、
宮城道夫と合奏した様子などを自作に書いていたりします。

なんにせよ、戦前のインテリの底力というものを感じます。
当時は専門だけではなく、趣味でも一流でこそ、ということが
あったのでしょうね、とても現代では考えられません。
「嗜む」趣味人は現代でも多いでしょうが、
上述の通り、玄人はだしのこういった知識人が
すくなくなかったというのは、見習うべき点でしょう。

2012年11月7日水曜日

ワーグナー「オランダ人」の様式的違和感

私は難しい台本が苦手で、ワーグナーはあまり聴かないのですが、
だからこそ歴史的録音はほとんど聴いていないため、
迷わず購入したのがこれ。

バイロイトの遺産~ワーグナーの幻想

 

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まず思ったのは、オケの精度という点では、
確かに現代のオケのほうが優秀かもしれない。
だけど、なんというか、映画音楽を聴いているような気がするんです。
メトの「指輪」の最新映像など、舞台の豪華絢爛さもありますが、
なにかハリウッド映画を見ている気分になります。

別に本場が一番というわけではないですが、
上記のBOXに含まれる歴史的演奏は、
メカニックの精度を語るのは何か違う気がしました。
それに、歌手は断然現代よりいいですね。
これはロッシーニなどと正反対のことなので興味深いです。

ところで、以前からどうも居心地のわるい作品があって、
それが「さまよえるオランダ人」なのです。
どうしても違和感がぬぐえない。
この素晴らしいBOXセットでもそれは変わりませんでした。

そんなとき、ピリオド楽器による、初稿による
「オランダ人」の演奏をみつけました。
ヴァイル指揮カペラ・コロニエンシスによるものです。



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ここで重要なのは、ピリオド楽器演奏ということよりも、
完全なる初稿を使用しているという点です。
詳しくはライナーノートに譲りますが、
ワーグナーは生涯にわたってこの作品を改訂し続け、
結果的に実用譜のもととなりえる稿を残さなかったのです。
これは「リエンツィ」も同様なのですが、
ワーグナー自身、ひいてはバイロイトで否定された過去である
「リエンツィ」と違い、オランダ人はバイロイトの演目にもなります
(「リエンツィ」をいくら否定しようと、原点であることには違いなく、
それを自覚しているからこそ余計に葬り去りたかったんでしょうが)。

そこで、出版に当たり、ワインガルトナーが一種の
架空の稿を仕立てたのです。
これはある程度仕方ないことだったとは思います。
なにしろこの作業はワーグナーの死後、1896年に行われたものですから。

ただし、当時としては「指輪」や「パルシファル」を皆が経験しており、
晩年のワーグナーの響きにあまりにもなじみすぎていたのでしょうね。
この初稿による演奏は、ある意味「リエンツィ」の影が見えるともいえます。
言い換えれば、グランド・オペラの要素が垣間見えます。

ワーグナーが生涯にわたって、10回以上の改訂をつづけたのも、
結局それが多かれ少なかれ影響しているように思います。
ただ、「リエンツィ」と決定的に違うのは、台本です。
「オランダ人」ではすでにワーグナーの世界が出来上がっています。
ただ、音楽は台本ほどには決定的にワーグナーではないと思いました。

つまり、ワインガルトナー版、つまり出版譜は、
あちこちの改訂を切り貼りし、ワーグナー自身でさえ
ついになしえなかった「体系的改訂」を
他人が無理やりやったものなんですね。
ああ、なるほど、と思いました。
どうも居心地わるい気分なのは、こういう背景があったわけですか。

たとえば、有名なゼンタのバラード 、
初稿ではイ短調(出版譜はト短調)ですが、
音を下げたのは、たぶん、ロッシーニあるいはマイアベーアの
グランド・オペラのソプラノではなく、
ドラマティック・ソプラノで映えるように、という配慮じゃないでしょうかね。
このバラード、いつ聴いても違和感を覚えていたのですが、
本来もっと軽やかな声質が前提だったように思います。
これを晩年のワーグナーの様式に無理なく溶け込ませるには、
本来なら全面的に書きかえなきゃだめでしょうね。

さて、「オランダ人」をどうあつかうか、ですが、
ワインガルトナー版ではやはり無理があると思います。
ワーグナー自身が不満であったとしても、統一感のある初稿を使うか、
様式的齟齬を承知の上でそれでもワインガルトナー版を使うか。

はじめに書いた通り、私は決してワグネリアンではありませんので、
生粋のワグネリアンの方はどうお考えなのか、興味のあるところです。