2012年6月16日土曜日

楽器に「進化」はありえるのか?

このブログを立ち上げて何か月か経ちます。
いくつか記事をお読みくださった方なら気づかれていると思いますが、
私はピリオド楽器系の演奏が好きです。
でも現代音楽も好きなのですね、不思議に思われるかもしれませんが。
古楽と現代音楽というのは相当に親和性が高いというのが持論ですが、
今回はそれが主眼ではないので、
またいつかそれについては書きたいと思います。

さて、楽器です。
楽器に「進化」というものがあるのか、と問われれば、
私は完全に否定します。
「変化」があるのは当然としても、それが良い方向に
変化しているとばかりは言えないと思うのです。

古琴や筝の話をしましたが、絹糸を使用しなくなったのは、
まあ率直に言って現代はうるさすぎるからだと思うのです。
音色を犠牲にしても音量を強化せざるを得なかった。
これは完全に二者択一であって、音量強化がなされたからといって
「改良」と言えないのは音色の犠牲があまりに大きいからです。

これは西洋でも同じだと思います。
たとえばクラヴィコード。これは古琴と非常に近い。
演奏者自身か、楽器のすぐそばの人間にしか音は聞こえません。
ですが、繊細な音色と、音色変化が可能です。
よくクラヴィコードの特色としてヴィブラート(ベーブング)がかけられることを
挙げられますが、あくまでベーブングの本質は
音色変化奏法の応用の一つであって、
モダン楽器的なヴィブラートがかけられるから優れている、というのは
まったくの的外れということは忘れてはならないでしょう。

クラヴィコードやチェンバロとピアノはですから全く別の楽器であり、
チェンバロがピアノの先祖であるかのようなことを言う方もいますが、
これもまったく事実とは異なります。
現代では発音方法が両者でまったく異なることは
よく知られてきていますからこれは改善されてきていますが。

問題は様々な年代のフォルテピアノ 、これとモダンピアノの関係です。
結論から言いますと、これも別の楽器と考えた方がいいのです。
古琴や筝が絹糸を放棄したのと似ていると思います。
音色と音量の二者択一で、やむなくモダンピアノに変貌していったのでは。

リストは演奏会で、全く同じ状態のピアノを三台用意していたそうです。
リストの演奏に当時のピアノの張力では耐えられなく、
調律が狂ってしまうので、こういう準備をしていたそうです。

地歌の演奏会の様子をごらんになった方、ピンときたはずです。
現在のところ絹糸をまだ使用している三味線は、絃が切れやすいので、
替え三味線といって、三味線奏者の後ろに
絃が切れた時の替えの三味線を置くことがあります。
名人上手になってきますと、一番太い絃が切れた場合を除き、
ポジション移動だけで弾ききってしまうこともありますが…。
まあ、普通の発表会レベルですと替え三味線を用意するのが普通です。

リストの時代はまだ原始的なピアノしかなかったから、
これは仕方なかったのだろう、と言われるかもしれないですが、
どうでしょうね、これは簡単に結論は出せません。

ベートーヴェンのピアノ作品が、当時激変を繰り返していた
ピアノの変化を作品に組み入れていたように、
また、クレメンティ社製ピアノの販促の一環でもあった
クレメンティのピアノ作品も積極的に新しいピアノの奏法を
取り入れて宣伝も兼ねていたように、
この二人の活動時期ほどの激変はなかったとはいえ、
代わりにリストは長命でした。楽器の変化は当然作品に反映させました。
しかし、進化論では語れない問題もあるのです。

「超絶技巧練習曲集」には3つの稿があります。
このうち一番実際の演奏が困難なのはどれだと思われますか?
「楽器進化論」がそのまま適用できるなら、第3稿のはずですよね?
ですが、実際には第2稿なんですよ!

このことは、実は2つ稿のあるパガニーニ練習曲集にもあてはまります。
最初の稿の方がはるかにムチャクチャな技巧を要求されます。
リストはあえて技巧的には簡易化をして(それでも十分難しいですが)、
最終稿としたわけです。最新のピアノの技術を
盲信していなかったのではないでしょうか。

おそらく、リストならば、音量の問題は自身の力量で解決でき、
ならば音色に優れた楽器を、という選択をしたのかもしれません。

フルートをはじめ木管楽器も、金管楽器も、
ヴァイオリンをはじめ弦楽器も、
すべて「改良」は音量面と、半音階対応に関してです。
音色は常に犠牲にされてきました。
現代の演奏会場ではもはや音色を対価にして
音量が出るように、また複雑な半音階進行に対応するよう
「進化」させた楽器を使用するしかないのですが、
これは音楽を演奏する道具である、「楽器」の正しい「進化」の
結果なのかと問われると、冒頭のように私は否定的見解です。

2012年6月4日月曜日

S.クイケンは私よりよほどわが師に忠実だ

S.クイケン指揮のバッハ:ヨハネ受難曲の再録音を聴きました。




バッハ:ヨハネ受難曲 クイケン&ラ・プティット・バンド(2SACD)
(Amazon) (HMV)

旧録音との違いは、最近のクイケンの一連の録音と同じく、
OVPP(合唱部も1パート一人で歌う)によるものということです。

クイケンはこれまでバッハの宗教作品をOVPPで録音し、また継続中です。
Challenge Classics にはこれまでに



モテット集 (Amazon) (HMV)



ロ短調ミサ (Amazon) (HMV)



マタイ受難曲 (Amazon) (HMV)


と、録音しており、また、Accent にはカンタータを同じくOVPPで
全20枚予定で録音継続中です。

正直、リフキンなどのOVPPの演奏を聴いたときには、
「なるほど、こういう学説もあるのだな」という
学説の実証くらいにしか思えなかったのですが、
クイケンとLPB(ラ・プティット・バンド)の最近の一連の録音は、
しっかりと演奏するヴィジョンがあって、その手段として
OVPPを用いていることがはっきりわかります。
学究的というよりは、すばらしい音楽ということがまずあるわけです。

唐突ですが、わたしの尺八の師匠には、よく同じ注意をされます。
「大きな音を出すことは大事だが、コントラストが出せないようでは無意味」と。
弱音があってこそ強い音も活きるし、逆もまたしかりなのです。
このことをクイケンとLPBのOVPP演奏を聴くと思い起こすのです。

特に、ヨハネ受難曲は合唱の担う役割が大きく、
果たして満足感が得られるのか、実際に聴いてみるまで
少し心配な部分もありました。
それは杞憂でした。
静かな祈りと劇的高揚が十分に表現されています。
少人数ゆえの精度の高さもあります。
なぜこんなことが可能なのでしょうか?

その答えは、先ほどのわたしの尺八の師匠の言葉にあるわけです。
もともと、バロック音楽はコントラストの音楽で、
漸強、漸弱といった要素はないわけです。
あるとしても長く伸ばす音のメッサ・ディ・ヴォーチェくらいでしょう。
このコンビのOVPPによるバッハ演奏は、基本が静謐な祈りなのです。
ですから、声を張り上げて絶叫しなくても
相対的に強音が対比されるわけなんですね。

なんということでしょう。
私の尺八の師匠の注意をよく守っているのは、
クイケンのほうではありませんか。
合唱の役割の大きいヨハネ受難曲を聴いて、
師匠の言葉の意味がわかった気がします。
絶叫は必要ないのです。
必要なのはむしろ静謐な祈りを純度を高く表現することなのです。