セレブリエール指揮によるグラズノフの交響曲・協奏曲全集を買いました。
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実は目的は協奏曲全集のほうで、小規模協奏作品をそろえるには
これが一番手っ取り早かったからです。
グラズノフは一応出来る限り全てのジャンルを聴いているのですが、
イメージといいますか、いまひとつつかみどころが無いのです。
ピアノ作品全集や弦楽四重奏曲全集、管弦楽作品も出来る限りいろいろ
聴いているのですが、「個性」がどこにあるのか、非常にわかりにくいのです。
私は好きな作曲家か、あるいはこうした「よくわからないな」という作曲家か、
そのどちらかに当てはまると徹底して聴きたくなる傾向にあるようで、
グラズノフは後者に分類され、できる限りの曲の種類を聴くようにしています。
さて、このBOXを少しずつ聴いていたのですが、
ちょっと驚いたのはフィルアップの「海」を聴いたときでした。
こんなに面白い曲だったかな?と耳が反応しました。
グラズノフの評価というのは、「折衷主義」という言葉でよく表されていますが、
どうも、ロシア的要素にこだわりすぎないほうがいいのではないか、と思ったのです。
管弦楽作品に関して言えば、やはりその巧みな管弦楽法は特徴であり、
チャイコフスキーが西欧旅行中にチェレスタを知り、
「くるみ割り人形」の「金平糖の精の踊り」に使用しようと心に決めてロシアに
チェレスタを手配する準備をするときに、念を押して注意したことは、
「私が作品で使うまではロシアの作曲家には知られないように厳重に注意すること。
特にリムスキー=コルサコフとグラズノフの二人には絶対に知られてはならない。」
ということでした。
逆に言えば管弦楽法に関してこの二人を非常に高く評価していたとも言えます。
グラズノフの交響曲はそこそこ録音も実演も少しずつではありますが増えている印象ですが、
その他の管弦楽作品はまだまだ、ということも感じます。
ロシアの演奏家はがんばっていますね。
スヴェトラーノフ御大は交響曲だけでなく、そうした管弦楽作品を
かなりの数録音していますが、現在入手困難です。残念。
かなり前置きが長くなりましたが、セレブリエール指揮による「海」に戻ります。
これはグラズノフ初期の作品ですが、すでに完成度はかなり高いです。
15歳であの「交響曲第1番」を完成させているのですから、不思議ではないのですが。
セレブリエールの演奏は、交響曲全体にも言えることですが、
無国籍風といいますか、ロシア的な要素をあまり強調していません。
これが結果的に面白い響きを生み出しているように感じます。
たとえば、R=シュトラウスの演奏に関して、ベームやライナーやケンペあたりは、
音楽の内容にも意味を見出そうとした演奏をしています。
言い方は悪いですが、カラヤンの場合は、徹頭徹尾響きの華麗さを追求する方向です。
いや、もちろんそれだけではないですが、これはかなりエポックメーキングだったと思います。
「そうか、オーケストラの華麗な響きに酔いしれるという楽しみ方もありだ!」ということです。
セレブリエールによるグラズノフの「海」を聴いたとき、そのことを想起しました。
芸術的感銘とか音楽的な深遠とか、そういったことはとりあえず置いておくと、
グラズノフの華麗なオーケストレーションに純粋に浸るという楽しみもあるのではないかと。
グラズノフの交響曲以外の管弦楽作品はロシア系以外の演奏の録音は極端に少ないです。
ですから結果的に「ロシア的ななにか」を求めた真面目な演奏が多くなっているわけです。
それは大切なことですけれども、グラズノフの楽しみ方の一面を奪っているかもしれない。
カラヤンがR=シュトラウスの交響詩演奏で行ったような一種の開き直りがあると、
また違った可能性があるのかもしれない、と思ったのです。
もし、往年のカラヤン/ベルリン・フィルがグラズノフの管弦楽作品を取り上げたら、
グラズノフの現在の位置が大きく変わっていた可能性もあるのではないかとさえ思います。
ただ、当時としては演奏会にせよ録音にせよ、グラズノフの知名度では
OKは出なかったでしょうから、本当に”IF”でしかないのですが。
ただ、当時の音楽界の状況を考えれば、カラヤンが取り上げていたら、
とりあえず聴いてみるか、という人々も一定数存在したと思いますし、
その中の何割かは「結構面白いな」と思ったかもしれない、ということです。
ただし、私が感じたのはまだここまでです。
華麗にオーケストラを響かせる演奏に身をゆだねることは心地よいのは確かです。
ただ、聴き終えた後に、「どういう曲だった?」と尋ねられると、答えに窮します。
グラズノフが本格的に受容されるにはまだ何かが足りないでしょうし、
私もそれを求めて今後もグラズノフを聴いていくのだと思います。