2014年9月15日月曜日

もしかしたらあったかもしれないグラズノフ受容

セレブリエール指揮によるグラズノフの交響曲・協奏曲全集を買いました。


(Amazon) (HMV)

実は目的は協奏曲全集のほうで、小規模協奏作品をそろえるには
これが一番手っ取り早かったからです。

グラズノフは一応出来る限り全てのジャンルを聴いているのですが、
イメージといいますか、いまひとつつかみどころが無いのです。
ピアノ作品全集や弦楽四重奏曲全集、管弦楽作品も出来る限りいろいろ
聴いているのですが、「個性」がどこにあるのか、非常にわかりにくいのです。

私は好きな作曲家か、あるいはこうした「よくわからないな」という作曲家か、
そのどちらかに当てはまると徹底して聴きたくなる傾向にあるようで、
グラズノフは後者に分類され、できる限りの曲の種類を聴くようにしています。

さて、このBOXを少しずつ聴いていたのですが、
ちょっと驚いたのはフィルアップの「海」を聴いたときでした。
こんなに面白い曲だったかな?と耳が反応しました。

グラズノフの評価というのは、「折衷主義」という言葉でよく表されていますが、
どうも、ロシア的要素にこだわりすぎないほうがいいのではないか、と思ったのです。

管弦楽作品に関して言えば、やはりその巧みな管弦楽法は特徴であり、
チャイコフスキーが西欧旅行中にチェレスタを知り、
「くるみ割り人形」の「金平糖の精の踊り」に使用しようと心に決めてロシアに
チェレスタを手配する準備をするときに、念を押して注意したことは、
「私が作品で使うまではロシアの作曲家には知られないように厳重に注意すること。
特にリムスキー=コルサコフとグラズノフの二人には絶対に知られてはならない。」
ということでした。
逆に言えば管弦楽法に関してこの二人を非常に高く評価していたとも言えます。

グラズノフの交響曲はそこそこ録音も実演も少しずつではありますが増えている印象ですが、
その他の管弦楽作品はまだまだ、ということも感じます。
ロシアの演奏家はがんばっていますね。

スヴェトラーノフ御大は交響曲だけでなく、そうした管弦楽作品を
かなりの数録音していますが、現在入手困難です。残念。

かなり前置きが長くなりましたが、セレブリエール指揮による「海」に戻ります。
これはグラズノフ初期の作品ですが、すでに完成度はかなり高いです。
15歳であの「交響曲第1番」を完成させているのですから、不思議ではないのですが。
セレブリエールの演奏は、交響曲全体にも言えることですが、
無国籍風といいますか、ロシア的な要素をあまり強調していません。
これが結果的に面白い響きを生み出しているように感じます。

たとえば、R=シュトラウスの演奏に関して、ベームやライナーやケンペあたりは、
音楽の内容にも意味を見出そうとした演奏をしています。
言い方は悪いですが、カラヤンの場合は、徹頭徹尾響きの華麗さを追求する方向です。
いや、もちろんそれだけではないですが、これはかなりエポックメーキングだったと思います。
「そうか、オーケストラの華麗な響きに酔いしれるという楽しみ方もありだ!」ということです。

セレブリエールによるグラズノフの「海」を聴いたとき、そのことを想起しました。
芸術的感銘とか音楽的な深遠とか、そういったことはとりあえず置いておくと、
グラズノフの華麗なオーケストレーションに純粋に浸るという楽しみもあるのではないかと。

グラズノフの交響曲以外の管弦楽作品はロシア系以外の演奏の録音は極端に少ないです。
ですから結果的に「ロシア的ななにか」を求めた真面目な演奏が多くなっているわけです。
それは大切なことですけれども、グラズノフの楽しみ方の一面を奪っているかもしれない。
カラヤンがR=シュトラウスの交響詩演奏で行ったような一種の開き直りがあると、
また違った可能性があるのかもしれない、と思ったのです。 
もし、往年のカラヤン/ベルリン・フィルがグラズノフの管弦楽作品を取り上げたら、
グラズノフの現在の位置が大きく変わっていた可能性もあるのではないかとさえ思います。

ただ、当時としては演奏会にせよ録音にせよ、グラズノフの知名度では
OKは出なかったでしょうから、本当に”IF”でしかないのですが。
ただ、当時の音楽界の状況を考えれば、カラヤンが取り上げていたら、
とりあえず聴いてみるか、という人々も一定数存在したと思いますし、
その中の何割かは「結構面白いな」と思ったかもしれない、ということです。

ただし、私が感じたのはまだここまでです。
華麗にオーケストラを響かせる演奏に身をゆだねることは心地よいのは確かです。
ただ、聴き終えた後に、「どういう曲だった?」と尋ねられると、答えに窮します。
グラズノフが本格的に受容されるにはまだ何かが足りないでしょうし、
私もそれを求めて今後もグラズノフを聴いていくのだと思います。

2014年6月10日火曜日

現代の邦楽器作品の惨状の背景

twitterからの引用、ライトノベル作家の榊一郎氏によるもの。以下引用。

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要は、エンターテイメント作品における「リアリティ」とは、
お客さんが白けない為の雰囲気作りが最優先であって、
逆に言えば大多数のお客さんが「なにこれ?」と戸惑うばかりで、
ごく一部の知識と、高い考証力を持った専門家しか「なるほど!」と膝をうたないような表現は、
リアルではあっても、リアリティ表現としては失敗してる、と考える事が出来る訳ですよ。
勿論、その「一般の圧倒的多数のお客さん」の知識と考証力をどの辺りに設定するのか、
これはもうターゲットたる客層と、時代や国によっても違ってくるので、
そこをどう判断するかが問題になる訳ですが(後略)。

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以上引用終了。
これはきわめて示唆に富むといいますか、ちょっと考えたことがあるので。

私が「エセ和風ムード音楽」と嫌悪している、
邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品に関して、なんとなく事情がわかった気がしたのです。

現代において「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」
(現代邦楽と言うと真摯な作品まで含まれてしまうので面倒ですがこう表現します)
を演奏したり聴いたりする「お客さん」というのは、圧倒的に古典の知識が不足しているか、
もっといえばまったく無い場合も少なくないわけで、そういう「お客さん」相手に
「専門家しか『なるほど!』と膝をうたないような表現」はありえないわけですね。
あくまでエンターテイメントであって音楽として考えるからおかしなことになるわけです。
古典を基準に音楽として真面目に相手にしようとすることそのものが間違いなんですね。
なにか状況がやっとわかったような気がしますよ。

西洋音楽作曲家による西洋楽器を使いつつも日本の伝統音楽を
真摯に受け止め、消化し、新たに創造した作品のほうが
「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」よりもはるかに古典邦楽を感じることが出来るのも、
要するに「ターゲットたる客層」の違いによるところが大きいわけですね。
こういう音楽を聴くような人たちは、真剣に音楽と対峙する人々ですから、
創作側も真剣になると、まあ単純なことだったわけです。

単純にエンターテイメントとして消費してどんどん消えていく消耗品と、
音楽作品を同列にして考えることは非常におろかだった、と。

ただ願うことは、少数ながら古典と真面目に向き合っている邦楽関係者の方々、
そういう方たちには演奏はもちろんですが、消耗品ではない、
きちんとした音楽作品の創作にも向き合っていただきたいな、と。
新作の創作が無い音楽は衰退する、というのは
世界のどの地域のどんなジャンルの音楽でも共通しています。
博物館に保存しているだけではダメなんですよ。

楽人である芝祐靖氏はこう述べています。
「自分に作曲の才能が無いことはわかっているが、
雅楽存続のために創作をしている」。

2014年2月23日日曜日

古典芸能ベスト・セレクション 名手・名曲・名演奏シリーズ

西洋音楽ではすっかり廉価盤でいい演奏が入手できるいい時代になりましたが、
邦楽の場合はまだまだ高価で、手を出しにくい状態でした。

そこへ、2枚組2,500円という廉価で素晴らしいシリーズが出ましたので紹介します。
「古典芸能ベスト・セレクション 名手・名曲・名演奏シリーズ」 です。
こちらで紹介されていますが、具体的に補足説明などしてみたいと思います。

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフによるブログページ

私も最初は、「2枚で2,500円か、よくある安物買いの銭失いパターンかな?」
と冷やかし半分で内容を見てみたのですが 、驚きましたよ。
これはかなり邦楽に詳しい方はともかくも、これから聴いてみたいという方には
まさにうってつけの優れた企画です。西洋音楽に傾きがちな当ブログですが、
もともとは邦楽も聴いていただきたいという思いで時々記事を書いてきましたので、
これを紹介しないわけにはいかないのです!

たとえば、雅楽の詳細をご覧ください。
まず、神楽歌から始まっています。
神楽歌というのは、皇室の宮中行事と密接な関係があり、
関係者でなければまず聴くことのできない音楽です。
幸いにして、このような企画CDも出ていますけれども、いきなり買うには敷居が高いわけです。

日本古代歌謡の世界

   

 (Amazon) (HMV)

この商品では、古典芸能ベスト・セレクションの「雅楽」でいえば1枚目の
4曲目までの「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」という、日本古来の音楽を
4枚組で収めています。

さらに、渡来楽としての管弦に移り、「回盃楽」「胡飲酒破(双調音取と組み合わせて一具)」
鳥急(迦陵頻を双調に移したもので「渡物」といいます)」と演奏されています。
2枚目は調を変えて、おそらく雅楽でもっとも有名な「平調越天楽」。
しかし、ここで演奏されているのは「残楽(のこりがく)」という特殊な演奏様式です。
雅楽は音で聴くこともよいのですが、演奏する姿も貴族らしく、
雅に演奏するところが美しいので是非生で聴いていただきたいのですが、
その雅な演奏方法のため普段はあまり目立たない楽筝の名技を楽しむのが「残楽」です。
ただし、これは楽筝を目立たせるために篳篥は音をかなり引いて演奏するため、
演奏する側も、聴く側も、曲の旋律を全体暗譜して、頭の中で補完する必要があります。
つまり初心者がいきなり聴くような演奏形態ではないのですが、そこは録音ですから、
何度も聴いて、そのうち楽しめるようになるということですね。

さらに舞楽も収められ、きちんと右方と左方が収められています。
舞楽というのは文字通り、舞を伴うものですが、音だけでも管弦とは異なり、
絃楽器は演奏されません。
管弦と舞楽で同じ曲を演奏しても、全く違うというわけです。
左方というのは唐の音楽、右方というのは高麗の音楽で、調子も違いますし、
楽器も右方の場合笛は高麗笛を使うほか、打楽器の編成も違いますし、リズムも異なります。
本来の舞楽は、左方と右方が対になっているので、このようにある程度曲を収録して
くれていると、雰囲気もつかめてくるでしょう。

さて、こうやってこの2枚組で気に入ったジャンルへと進んでいけば、理解も早まるわけです。
国風歌舞が気に入ったならば上記の4枚組、管弦が好きだというならば、管弦の、
舞楽が面白そうだとなれば、これはCDもありますが、実際に観にいくことが一番です。
舞があってこその舞楽ですからね。

このように、かなりバランスを考えて収録されています。しかも演奏はしっかりしています。
実は「雅楽紫絃会」というのは、当時は名前を出せなかった宮内庁式部職楽部のことなので、
演奏がしっかりしているのも当然と言えば当然なわけです。

こんな調子で紹介していくととても終わりませんので、「地歌」だけ、また例を出しましょう。
最初に収められているのは「細り」ですが、これは「三味線組歌」といいまして、
すべての三味線音楽の源流です。柳川検校(?-1680)はその中でも「派手組」という、
新しい作風の組歌を作曲した人です。
2,3,4曲目の作曲者、峰崎勾当は大阪の地歌の最後の世代の大作曲家ですが、
その作品の中で「端歌」と呼ばれる形式の地歌を集めています。
この「端歌」というのは地歌の一形式で、別ジャンルである
「端唄」とは異なりますので注意してください。

5曲目の「菊の露」はとても格が高く、大切にされている名曲です。
私が学生時代に「菊の露をやりたいです」と絃の先生に申しましたら、
「学生に演奏させたら師匠の品格が疑われる」と即座に却下されたというくらいです。
まあ、当時の私も今考えると非常識で冷や汗ものですが。

6曲目は「打合せ」といって、違う曲の同時演奏です。そのように作曲されているのです。
名目は「すり鉢」となっていますが、ここでは「れん木」 「せっかい」と合わせて
三曲の同時演奏です。

7曲目の「黒髪」は少し変わった作風ですが、名曲です。
もともと芝居に使われた曲が地歌に取り入れられたものです。

8曲目の「影法師」は、幕末の作曲家・幾山検校の端歌のこれも名曲。
演奏が京都を代表する名手萩原正吟師というのも聴きどころ。

9曲目の「荒れ鼠」 は「作物」というこっけいな題材の地歌で、
変に澄ましたような先入観をお持ちの方は是非聴いていただきたいジャンルです。
演奏は大阪を代表する名手富崎春昇師というのもまた聴きもの。

2枚目は全て「手事もの」という、歌よりも長い、器楽間奏部分を主眼としたジャンルです。
とくに3曲目の「八重衣」は、手事が2つもあり、演奏に30分もかかる大曲です。
しかし退屈はしませんよ、作曲者は弟子も取らずに赤貧にあえぎながら、
自分でも弾きこなせないような難曲大曲ばかり作っていたという変人・天才・石川勾当。
その作曲技法のすべてがここにつぎ込まれています。

演奏者の配分もかなり気を配っているのがわかります。九州、山陽、大阪、京都、
さらにその中でも細分される名手の系統をバランスよく配しています。
これはなかなかにすごいことですね。
おそらく解説にはそのあたりも記されていると思いますので、
気に入ったジャンル、作曲者、演奏者の系統、そういったものから
地歌の手がかりを見つけていくことが可能なんです。

本当は全部こんな調子で紹介したいところですが、もう無理です。
とにかくどのジャンルも曲目とジャンルと演奏者、すべてに気を配り、
バランスよく選曲されていることだけは確かです。
邦楽では演奏者の系譜というのも大切な要素ですので、これは重要なことです。

本当におすすめしたいシリーズですので、気になるジャンルがあれば
ぜひお聴きいただければ、と思います。

2014年1月7日火曜日

野平一郎による松平頼則:ピアノ作品選集

本日発売された、野平一郎氏演奏による松平頼則のピアノ作品選集です。
さっそく聴いてみました。
松平頼則についてはこちらで過去に少し書いたことがあります
(学校での邦楽教育の教材と魔術師・松平頼則氏)。



(Amazon) (HMV)

収録曲は以下のとおりで、およそ75分、たっぷり収録されています。

・前奏曲 ニ調(1934)
・前奏曲 ト調(1940)
・6つの田園舞曲(ca.1939-45)
・リードI(呂旋法による)(作曲年代不明)
・リードII(律旋法による)(作曲年代不明)
・ピアノ・ソナタ(1949)
・6つの前奏曲 主題と変奏の形式による(1975)

このように、おおよそ作曲年代順に並べられています。
なにしろ膨大な作品を残し、初演を待っている作品も数多く、
いまだ全貌が明らかになっていない松平頼則だけに、
こうした試みは興味深いものがあります。

ピアノを弾いている野平一郎氏は、松平頼則に作品を依頼し、
その結果「ピアノ協奏曲第3番」が、作曲者死の年、2001年に
松平頼則93歳という年齢で生まれました。
この作品は、 野平一郎氏の校訂と独奏により、2010年にようやく初演されたもので、
ご記憶の方もあるかもしれません。

野平一郎氏はそうしたこともあり、松平頼則作品はかなり前から
まとまった録音を意図していたようなのですが、
自身ピアニストとしても活躍していた松平頼則のピアノ作品はなかなかに手ごわく、
ようやく今回リリースに至ったということです(過去に録音しながら没にしたこともあったとか)。

最初の2曲の「前奏曲」は本当に初期の作品ですね。
松平頼則は「前奏曲集」を企画していたようですが、
当時の作曲者は西洋の調性と日本の旋法にどう折り合いをつけるか、
結局回答を見いだせず、残された一曲が後者の前奏曲だそうです。

後年の松平頼則を知るものにとってはかなり意表を突かれる音楽です。
フランス音楽の影響は明らかです。
ピアニストとしても活躍した松平頼則にとっては、
フランス近代音楽はかなり興味をひかれるものだったのでしょうね。

「6つの田園舞曲」「南部民謡集」と共通した語法が感じられます。
ちなみに「南部民謡集」は録音がありますので、参考までに。



松平頼則作品集II/奈良ゆみ

(Amazon) (HMV

松平頼則はこう述べています。

「東北地方の民謡をバルトークのように採取している人に会った。
『南部牛追唄』を見せられたとき、思わず、私には伴奏の最初の音が浮かんだ。
それはsi♭→miなのである。そして『牛追唄』の開始音Faに実に自然に流れ込む。
私の半ば無意識に択んだ二つの音の関係は増4度であった。」
(上記ディスク解説から一部引用)。

つまり、当時フランスの影響下にあった松平頼則は、
民謡の中にドビュッシーを「発見」したということです。
「6つの田園舞曲」も、「南部民謡集」のように、
フランス音楽と日本旋法の折り合いをつけるのに、
民謡に手がかりを得たようです。
そういうわけで、これは当時の松平頼則の模索の記録の一つと言ってよいでしょう。

「リードI(呂旋法による)」「リードII(律旋法による)」の、
正確な作曲年代は実はよくわかっていないのですが、
この位置に置いたことに関しては長くなりますので、
詳しくはライナーノートを参照してください。
呂旋法(あるいは呂旋)、律旋法(あるいは律旋)は、雅楽の音楽用語です。
移動ド式に書きますと以下のような音階です。

 ・呂旋法(あるいは呂旋)
ド・レ・ミ・ソ・ラ・ド

・ 律旋法(あるいは律旋)
ド・レ・ファ・ソ・シ♭・ド

ここで音階の中の音程関係に注目してください。
呂旋法(あるいは呂旋)においては
完全五度完全四度長二度短三度長三度、が、
律旋法(あるいは律旋)においては
完全五度完全四度長二度短三度、が
それぞれ重要な音程となっています。

実際の雅楽でも、「移動ドで書くと」と述べましたように、
転調(中心音(宮)の移動)、移旋(雅楽では楽器の音程が狭いため、西洋音楽的「移調」はなく、
同じ旋律の音高を変えた場合に旋律は必然的に変形します)、臨時音など、
さまざまな理由で基本以外の音は使われますが、あくまで重要なのは
上記の音程関係ということはできます。
この2曲の「リード」においては、それぞれ曲名に付された旋法に含まれる音程関係、
これを意識して聴くと面白いと思います。

「ピアノ・ソナタ」は、1949年という作曲年は信じられないほど、
語法が以前の作品群より洗練されています。
そして、聴くためにはかなりの集中力が必要とされます。
まさに初期の集大成にふさわしい作品です。
演奏技巧的にもかなりな難曲のようで、
作曲者が代案(ossia)を提示している部分もあるようです。

無窮動的な第3楽章に時々現れる休止がかなり印象的です。
このほんのわずかな間が、より緊張感を増すことになっています。

「6つの前奏曲 主題と変奏の形式による」は、いよいよセリーによる作品です。
この作品を構成する6曲の演奏順は任意ということになっており、
ここで野平一郎氏は「第3曲、第1曲、第4曲、第2曲、第6曲、第5曲」
という演奏順序を選択しています。

第1曲で提示されるセリーは以下のとおりです。

「a-gis-fis-es-f-g-e-b-a-h-cis-d」

ここで、上述の雅楽の2つの旋法における重要な音程関係として
指摘したものを参照してください。
このセリーは、「fis-es」「e-b」を例外として
それらの音程関係で成り立っているのです。
さらには、強く弾く音、伸ばす音、等で、特に
完全四度、完全五度、長二度、が浮かび上がるようになっています。
結果として、セリーに依る音楽を聴いていながら、
記憶の底では雅楽の音階を呼び起こされるという不思議な感覚があります。
これが「セリーと雅楽の融合」として有名な松平頼則の
マジックの種明かしになります。

実際、私はこのCDを聴いて、「ピアノ・ソナタ」で極度に集中力を要したため、
かなり消耗した状態で「6つの前奏曲 主題と変奏の形式による」 を聴いたのですが、
前衛語法によるこの作品を聴いて、かなりリラックスした気分になり、
くつろいだ印象を受けました。
本当に作曲者の魔術には感服です。

こうして考えますと、最初期の「前奏曲」で始まり、セリーを使った「前奏曲」で終わるという、
対比としても面白いプログラムだと思います。

まだまだ膨大な作品が残されていますし、何より野平一郎氏にとっても重要であろう、
「ピアノ協奏曲第3番」などもあります。
これを第一歩として、続編を強く期待したいと思います。

2014年1月2日木曜日

レットベリによるスクリャービン:ピアノ作品全集 その2

みなさん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、年末にご紹介した、レットベリの「作品番号付き」の
スクリャービンピアノ作品に限定したBOX  のリリースから5年。
昨年末にレットベリは「作品番号なし」のピアノ作品をまとめて録音し、
リリースしました。それがこちらです。



A.スクリャービン[1872-1915]&J.スクリャービン[1908-1919]:遺作集

(Amazon) (HMV

まず冒頭で、レットベリはなぜ5年前の「全集」を
「作品番号付き」に限定したか、理由を述べています。
『作曲者が意図したとおりに世に出したかった』という簡単な理由でした。
彼女はその録音に際し、演奏会でもスクリャービンを弾き続けたそうです。
彼女の当時の作曲家へのリスペクトだったのですね。

しかし、その後彼女は、自分でも驚きだったと語っていますが、
「作品番号なし」の作品も、非常に優れており価値のあるものだと思うに至ったようです。
そして、5年前の「全集」録音時と同様、演奏会で何度も演奏し、
その末にこれらの作品も世に出すことを決意した、ということです。

スクリャービンの作品番号なしの作品の録音自体は、少ないとはいえ
皆無ではありません。何枚か集めれば一通り聴けるようなくらいには音盤はあります。
しかし、このレットベリの新譜のように、それだけに焦点を合わせたものは貴重です。
さらには、このCDには、世界初録音が3曲あります。
それには理由があり、1997年に初めて校訂されたものだからです。
それらは、「スケルツォ 変ホ長調(1886)」、「スケルツォ 変イ長調(1886)」、
「ピアノのための小品 変ロ短調(1887)」です。
従来の作品表には、確かに「スケルツォ」は欠けています。
このジャンルにもスクリャービンは作品を残していたのですね。

演奏は、やはり冴えた技巧によるもので、ひんやりとした抒情が心地よいです。
ベタベタとしたところがないのは彼女の美点だと思います。
そして、こうやって初期作品をまとめて聴くことにより、
スクリャービンがいかに急速に作風を変えたり、書法を充実させていったか、
はっきりと認識することができます。
これらの作品は、単独で考えた場合、決して無価値なものではありませんが、
作品を出版するようになった頃には、彼自身にとっては未熟なものに思えたのでしょう。

ですが、たとえば 「ソナタ 変ホ短調(1887-1889)」の第1楽章は、後年改訂し、
作品4の「アレグロ・アッパショナート」 として出版していますし、
スクリャービン自身も決して無価値とまで考えていたわけではないと思います。

そして、ホロビッツの得意レパートリーの一つとして有名な、
あるいはスクリャービン自身の自作自演録音でも有名な、
嬰ニ短調練習曲(作品8-12)の異稿も収められています。
こちらも近年かなり取り上げられるようになってきていますので、
お聴きになったことがある方も多いと思います。
これは出版の際、諸説あって定かではありませんが
(出版者のベリャーエフ自身とライナーにはありますが、リムスキー=コルサコフとの説もあり)、
とにかく他者に意見を聞き、最終的に出版したのが現行版で、
この異稿はその際選ばれなかった方です。
私の考えるに、これは劣っているというより、現行版の方が
"Patetico"(悲愴に)という発想記号により合致したほの暗い曲調だからではないかと。
異稿の方は、結構長調に傾く場面があって、意外に救いがある感じです。

さらにはこのCDにはスクリャービンの最年少の息子、ユリアンの
4曲の前奏曲も収められています。
ユリアンは不慮の事故により11歳で水死してしまったのですが、
ここに収められている彼の作品は驚くほど父の影響が見え、早熟です。
レットベリは「スクリャービン自身の未発表作品と言われてもわからない」とまで
述べていますが、それはさすがにほめすぎです。
ただし、10歳になるかならないかの少年の作品として考えると、やはり驚くほかなく、
惜しい才能が失われたものだ、と感じざるを得ません。
ユリアンの作品はめったに録音されませんし、こういう形で録音されるのも面白いですね。

それにしてもレットベリ、とうとうスクリャービンの独奏ピアノ作品は全て録音しましたね。
かつてアシュケナージがショパンの作品全集を完成させたとき、「スクリャービンは?」
と尋ねられ、「スクリャービンに関しては十分に義務を果たしたつもりだ」と答えた時と、
時代もずいぶん変わったこともありますし、レットベリ自身がここまで献身的に
スクリャービン作品に情熱を注いだこともあるでしょう。
スクリャービン愛好家にとっては本当にありがたいことです。