2014年6月10日火曜日

現代の邦楽器作品の惨状の背景

twitterからの引用、ライトノベル作家の榊一郎氏によるもの。以下引用。

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要は、エンターテイメント作品における「リアリティ」とは、
お客さんが白けない為の雰囲気作りが最優先であって、
逆に言えば大多数のお客さんが「なにこれ?」と戸惑うばかりで、
ごく一部の知識と、高い考証力を持った専門家しか「なるほど!」と膝をうたないような表現は、
リアルではあっても、リアリティ表現としては失敗してる、と考える事が出来る訳ですよ。
勿論、その「一般の圧倒的多数のお客さん」の知識と考証力をどの辺りに設定するのか、
これはもうターゲットたる客層と、時代や国によっても違ってくるので、
そこをどう判断するかが問題になる訳ですが(後略)。

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以上引用終了。
これはきわめて示唆に富むといいますか、ちょっと考えたことがあるので。

私が「エセ和風ムード音楽」と嫌悪している、
邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品に関して、なんとなく事情がわかった気がしたのです。

現代において「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」
(現代邦楽と言うと真摯な作品まで含まれてしまうので面倒ですがこう表現します)
を演奏したり聴いたりする「お客さん」というのは、圧倒的に古典の知識が不足しているか、
もっといえばまったく無い場合も少なくないわけで、そういう「お客さん」相手に
「専門家しか『なるほど!』と膝をうたないような表現」はありえないわけですね。
あくまでエンターテイメントであって音楽として考えるからおかしなことになるわけです。
古典を基準に音楽として真面目に相手にしようとすることそのものが間違いなんですね。
なにか状況がやっとわかったような気がしますよ。

西洋音楽作曲家による西洋楽器を使いつつも日本の伝統音楽を
真摯に受け止め、消化し、新たに創造した作品のほうが
「邦楽器奏者作曲による邦楽器用作品」よりもはるかに古典邦楽を感じることが出来るのも、
要するに「ターゲットたる客層」の違いによるところが大きいわけですね。
こういう音楽を聴くような人たちは、真剣に音楽と対峙する人々ですから、
創作側も真剣になると、まあ単純なことだったわけです。

単純にエンターテイメントとして消費してどんどん消えていく消耗品と、
音楽作品を同列にして考えることは非常におろかだった、と。

ただ願うことは、少数ながら古典と真面目に向き合っている邦楽関係者の方々、
そういう方たちには演奏はもちろんですが、消耗品ではない、
きちんとした音楽作品の創作にも向き合っていただきたいな、と。
新作の創作が無い音楽は衰退する、というのは
世界のどの地域のどんなジャンルの音楽でも共通しています。
博物館に保存しているだけではダメなんですよ。

楽人である芝祐靖氏はこう述べています。
「自分に作曲の才能が無いことはわかっているが、
雅楽存続のために創作をしている」。