それらは、同時代、あるいは後世の研究者や作曲家によって補筆されたりします。
ドニゼッティの最後のオペラ、 「アルバ公爵」もその一つです。
この作品はすでにいろいろな人の手で補筆されています。
弟子であったサルヴィ、指揮者のシッパースなど、
録音もそれなりにありますし、とりわけ珍しい曲というわけではありません。
しかし、本来フランス語のグランド・オペラとして構想された曲ですが、
フランス語のものはなかったんですね。
それで、 バッティステッリ補筆版のこのCDを買いました。
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そういうわけなんで、 バッティステッリの補筆は特に気にせず購入したのです。
1枚目はドニゼッティが完全に書いている、第1幕、第2幕、ということで、
なんということなく聴いていたのですが、
2枚目、いきなり二度のトロンボーンの和音によるアッコンパニャート が始まり、
なにごとか、と思い、解説を読んでみました。
サルヴィやシッパースは出来の良し悪しはともかく、
「ドニゼッティっぽい」補筆を心掛けているわけです。
ですが、 現代音楽作曲家でもあるバッティステッリは開き直って、
まったく自分のスタイルで補筆しているんです。
上述のアッコンパニャートなんて開幕のファンファーレに過ぎません。
ドニゼッティが残した部分との様式的祖語はもう確信犯的にやっています。
あまりにふざけすぎているんじゃないかなあ、と、最初は思いましたが、
次第にこう思い始めました。
この補筆だと、ドニゼッティがどの部分を残していたのか、
どの部分がバッティステッリの補筆の部分なのか、
もう聴いただけですぐにわかるわけです。
考えようによっては、これは良心的な補筆といえるのではないか?と
第4幕のフィナーレなんてすさまじいですよ。ほんの一部分のヴァイオリンパートだけ
ドニゼッティがスケッチ残していたんだな、ってすぐわかります。
ほかのパートがカオスですから(笑)。
補筆っていうものは結局どうしたって本物にはなれないわけです。
様式的に合わせようと努力したって、どうしても本人のものじゃない。
これは当たり前のことです。
じゃあ、開き直って、こういう風に、どこがオリジナルでどこが補筆か、
はっきり分かるようにしておく方が、あるいは良心的なのかもしれません。
補筆というもののあり方を考えさせる補筆でした。