久しぶりにドニゼッティを聴いてみました。
「ゴルコンダの王女アリーナ」
(Amazon) (HMV)
1828年初演作品ですから、ロッシーニはもうパリにいる時代ですね。
ロッシーニのパリ時代の諸作品は、たしかに絢爛なパリの様式を
感じることができますが、ロマン派というには、
私はなにか戸惑いがあります。
どこか、古典的均整を強く感じたりします。
有名な「ウィリアム・テル」のシンメトリー構造などその最たるものでしょう。
そういうロッシーニをずっと聴いて慣れてきて、
ますますロッシーニの天才を痛感していましたが、
上記ドニゼッティのあまり有名でない作品を聴いて、
ドニゼッティはロマン派なのだなあ、と強く感じました。
まあ、これは演奏者たちがあまりにも熱演過ぎる、ということも
関係があるのかもしれません。
20世紀初演のライヴ録音なのです。
この作品はしかし、「セミセリア」といういささか古い形式です。
ロッシーニでいいますと、「どろぼうかささぎ」や「チェネレントラ」 などが
「セミセリア」のジャンルに属します。
これがまた説明困難なんですが、セリアとブッファの中間、というわけでもないんですよ。
むしろ様式的なジャンルとしての分類でして、
典型的な筋立てとしては、いわゆる「救出もの」があります。
セミセリアではありませんが、お話的には、
モーツァルトの「後宮からの誘拐」やベートーヴェンの「フィデリオ」を
思い出してください。ブッファ的な役柄
(前者のオスミンや後者のロッコ)、
セリア的な役柄(前者のセリム、後者のドン・フェルナンド)、
そしてヒロインと主役ですね。
こうした筋立てが好まれた時期があり、それにふさわしい様式として
セミセリアというものが現れたようです。
ドニゼッティはしかし、この「セミセリア」の最後の巨匠ともいえる人で、
晩年の「シャモニーのリンダ」も「セミセリア」、しかも救出ものです。
それはドニゼッティの気質と関連していたかもしれません。
さて、上述の「アリーナ」ですが、
ロッシーニのパリ時代初期と同時期とは思えないほど、
ロマン的芳香がかなり強いのでおどろきました。
パッパーノなどはヴェルディの書法に決定的影響を与えたのは
ドニゼッティではないか、と言っていますが、そうかもしれませんね。
反対に、ドニゼッティ初期はロッシーニの亜流といわれることもありますが、
確かに影響は避けられないでしょうが、亜流とは思えません。
ところでこの作品、こんなにマイナーな作品なのに、
フィナーレが3種類もあるそうです。
ここでの演奏は、時代的に一番ふさわしと思われる
ロンド・フィナーレを採用しています。
さて、ドニゼッティについて考えてみました。
ロッシーニにはペーザロという聖地があり、
ゼッダら献身的で勤勉な研究者と、
ロッシーニ歌手たちによって、
最新の研究成果をロッシーニ音楽祭という舞台で
毎年世に演奏を送り出しているという、
すばらしい循環が出来上がっています。
対して、ドニゼッティは、生地ベルガモで音楽祭をやって、
いろいろ復活上演などされていますが、
ロッシーニほど研究は進んでいない状況です。
たとえば、彼のもっとも有名な作品の一つ「ランメルモールのルチア」、
その狂乱の場の調性が本来の調性(複雑に変化します)に戻されたのは
実に最近のことで、それまではト長調で統一されているような
印象に改変されていました。
さらには、この狂乱の場でのフルートとハープのカデンツァは
まったく第三者の創作であるばかりでなく、
そもそもオブリガート楽器はフルートではなく、
機械式のグラスハーモニカということで、
そういう本来の形に戻されたのも21世紀になってからです。
重要なのは、「もっとも有名な作品でさえそうした状況」ということです。
ロッシーニの作品が次々と最新研究の成果を踏まえて
クリティカル・エディションを刊行し、ペーザロで上演する、
そうしたことがどんどん行われているのに、
ドニゼッティはまだまだこれからなんです。
そして、「ルチア」でわかるとおり、彼の作品は
かなり改変されているようです。
ベルガモもペーザロのように、ドニゼッティ研究・演奏のメッカと
なることを祈りたいと思います。
がんばれ、ドニゼッティ研究者!