2013年12月30日月曜日

レットベリによるスクリャービン:ピアノ作品全集 その1

クラシック音楽を聴く人なら通過儀礼的にだれしも
スクリャービンに魅了される時期があると思います。

なぜ今更この全集の記事を書くかというと、
この「作品番号付き」の作品に限定したBOXのあと、
最近、「作品番号なし」の作品も録音し、リリースされたからです。
とりあえず、お聴きになった方も多いかと思いますが、
「作品番号付き」のBOXを「その1」として振り返りたいと思います。



スクリャービン:ピアノ独奏曲全集 レットベリ(8CD+ボーナスDVD)

(Amazon) (HMV)

彼女はスウェーデン国籍なので、 ”Lettberg”で「レッベリ」と発音します。

全8枚組、特典DVD付きの、作品番号のあるピアノ独奏作品の全集。
曲はジャンル別に分けられて収録されています。

レッベリは冴えた技巧の持ち主で、速めのテンポで弾いています。
耽溺しやすいスクリャービンの音楽の特性上、人によっては
実際以上に感覚的にドライな印象を受けるかもしれません。

感情表現という意味では、マズルカとエチュード、
それに詩曲は個性も感じられ、よいと思いました。
とりわけOp.69の2曲の詩曲は、好きな作品ということもあり、
個人的にはこだわりがあるのですが、面白く聴けました。
ソナタや前奏曲では競合盤も多いし、これが一番という
わけではないと思いますが、初期ソナタなどは技巧の冴えが
より相性がいいように感じました。
ただ、ソナタ第8番はいささかテンポが速すぎかもしれないですね。
前奏曲では中期以降のスクリャービンの個性が発揮し出される
Op.31以降の曲をとりわけ面白く聴けました。

特典DVDは、レッベリのインタビューと「MYSTERIUM」と
名づけられたマルチメディアプロジェクトの二つ。
インタビューは英独仏の字幕が選べるようになっていて、
この点でポイントは高いと思います。
「MYSTERIUM」はスクリャービンの作品の抜粋からなる
一種の組曲(6つの部分から成る)で、それぞれ、
ライナーノートにもあるスクリャービン自身の作品への
コメントと、プロメテウスの色光ピアノの指定などを参考にしつつ、
レッベリ自身のイメージをアンドレアス・シュミットが
具体化したものということです。
「MYSTERIUM」というタイトル自体、スクリャービン好きならおなじみですね。
そう、晩年に構想しながら未完に終わった「神秘劇」です。
その疑似体験ということなのでしょう、本当にスクリャービンが好きなんですね。

オマケとしてはなかなかよく出来ていると思いますが、
単体としてはどうかな…映像技術は日本はやはりすごいな、
ということを逆に感じました。

ポンティの古い全集は音質があまりにも貧弱ですので、
この全集の意義はかなりあると思います。
曲目一覧には作曲年も載っていますので、
スクリャービンの作風の変遷をたどる上でも有用です。

このBOXが出たときは本当にうれしかったとともに、
「作品番号なしの作品も録音してほしかった」という気持ちも抑えがたいものがありました。
5年の歳月を経て、それが実現したのですが、
そのディスクについては、「その2」として、年明けにでもご紹介いたします。

さて、今年は更新が少なかったことが反省材料です。
書きたいことは色々あるのですが、ついついそのままになってしまうのが
凡人たる所以ですね、反省しないといけません。
何かの機会でこのブログを訪れてくださった皆さん、ありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えください。

2013年12月11日水曜日

声楽作品鑑賞にはどの程度の語学力が必要なのか?

昔、スメタナのオペラを「ボヘミアのブランデンブルク人」以外の全作品を
集中して聴いたことがあって、いろいろ面白いところがあったので
話をしたら、「チェコ語は難解だからなあ」と返されたことがあります。

彼はオペラ(というより声楽作品全般)を原語で理解しようとする人で、
西欧主要国と、あとはせいぜいロシアで限界だ、と言っていました。
対訳に頼り切りの私にとってちょっとはっとさせられることでした。

私はせいぜい英語くらいしかわからないので英国作品で考えてみました。
パーセルの作品は古語ではありますが、きれいな言葉だなあ、とは感じます。
ただ、歌だとよく聞き取れないのでどちらにせよ歌詞は見ながら聴いているのですが。
それでも、直接的に脳に入ってくる感覚はたしかに対訳とは違うな、とは感じます。

その一方で、対訳を見なければわからないとはいえ、ロシアオペラ独特の
バスの魅力は言語を超えているような気がします。
あの独特のバス歌手がロシア語で歌うだけでなにか陶然としてしまいます。
まあ、そういう部分もあるからこそ、西洋ではマイナーなロシア語オペラも
結構人気だったりするのかもしれませんね。
ロシア語を直接理解できる人ばかりではないと思います。

いや、英語の前に私はネイティヴ日本語話者ではないですか。
邦楽で考えてみました。

邦楽といってもいろいろあるので、それぞれに違うのが面白いなと思いました。
たとえば、同じ室町時代の言葉を使っている能楽と狂言。
能楽は正直字幕が欲しいと思う時があるのですが、
狂言はそのまま笑えますよね。何が違うのだろうと考えると、
同じ室町時代の言葉でも、文語と口語の違いじゃないかな、と。

源氏物語の原文での読書はあまりにも難解すぎて放擲してしまったのですが、
平家物語は最低限の脚注があれば結構スムーズに原文で読めます。
これは時代の違いというより、書き言葉と話し言葉の違いの方が大きいような気がします。
平家物語は琵琶法師が弾き語りをするもので、聞いてわからないと話にならないのです。
だから、比較的平易な言葉を選んで作られているのかもしれません。
それでですね、平曲などをきくと、原文で十分理解できるので、
やっぱり眼前に場面が見えてくるような迫力があるのです。

江戸時代の浄瑠璃などもやはり話し言葉に近いのか、
比較的わかりやすくはあります。まあ最低限の予習は必要ですが。
そして面白いのが、同じ江戸時代が中心だった地歌の歌詞です。
地歌というのはかなり包括的なジャンルであるので、
わかりやすい歌詞のものもあれば、もはや言葉遊びに近い難解なものまであります。
地歌には作曲家がいただけでなく、専門の作詞家も存在していました。
西洋で言えばサロンのようなものだったんだと思います。
類語、縁語、古典からの引用、とにかく難解で、初めて聞いてわかるというのは
かなりの知識人だと思います。

歌詞もそうなんですが、音楽自体も地歌はちょっと特殊です。
ほかのジャンルに比べて宮音移動(移調)の頻度が高い。
つまり複雑なんです。
その上、旧作のごく一部の引用などをしてなにかをほのめかしたりします。
これは和歌の本歌取りのようなものですね。
とにかく、知っていることが前提というところがあるんです。

なんで地歌がこんなに特殊なのかというと、
やはり閉じた環境の中での音楽だったからだと思います。
作曲家もいわば職業作曲家兼演奏家でしたし、
前述のとおり、たいていは歌詞も専門の作詞家が作っていた。
聴衆はというと、これもまた仲間の作曲家、演奏家や、
家柄のよい家庭などだったりします。
こういう閉じた環境で新古今和歌集的な技巧の追及が行われたのではないかと。

思えば、能楽も、猿楽から能楽になった時に、歌詞が難解になったのではないかとも思えます。
能楽は武士の式楽ですから、やはり知識階級が相手ということもあるのでしょう。

で、地歌や能楽がつまらないかというと、そうではないですよね。
聴いて直接的に理解できるようになるまで予習する方もいますし、
まあそのほうが面白いことは確かなのですが。
これは上述のロシアオペラの魅力の源泉のようなことかもしれません。
たとえば地歌は上方が中心地であったため、旋律に上方言葉の影響が
かなり強いとされています。
大阪の作曲家の作品と、京都の作曲家の作品では、
やはり全然違うんですよ。
声楽作品ならでは、ということなのかもしれないですが、
純粋器楽部分まではっきりと違うので面白いんです。
当時から大阪と京都ははっきり違う風土だったんですね。
そんなところだけでも面白かったりするわけです。

声楽作品の鑑賞においてどの程度の語学力が必要かというのは結構複雑です。

2013年10月2日水曜日

補筆のあり方

作曲者の死とか、何らかの事情で作曲が中断されたまま残された作品は多いですね。
それらは、同時代、あるいは後世の研究者や作曲家によって補筆されたりします。
ドニゼッティの最後のオペラ、 「アルバ公爵」もその一つです。

この作品はすでにいろいろな人の手で補筆されています。
弟子であったサルヴィ、指揮者のシッパースなど、
録音もそれなりにありますし、とりわけ珍しい曲というわけではありません。
しかし、本来フランス語のグランド・オペラとして構想された曲ですが、
フランス語のものはなかったんですね。
それで、 バッティステッリ補筆版のこのCDを買いました。



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そういうわけなんで、 バッティステッリの補筆は特に気にせず購入したのです。
1枚目はドニゼッティが完全に書いている、第1幕、第2幕、ということで、
なんということなく聴いていたのですが、
2枚目、いきなり二度のトロンボーンの和音によるアッコンパニャート が始まり、
なにごとか、と思い、解説を読んでみました。
サルヴィやシッパースは出来の良し悪しはともかく、
「ドニゼッティっぽい」補筆を心掛けているわけです。
ですが、 現代音楽作曲家でもあるバッティステッリは開き直って、
まったく自分のスタイルで補筆しているんです。
上述のアッコンパニャートなんて開幕のファンファーレに過ぎません。
ドニゼッティが残した部分との様式的祖語はもう確信犯的にやっています。

あまりにふざけすぎているんじゃないかなあ、と、最初は思いましたが、
次第にこう思い始めました。
この補筆だと、ドニゼッティがどの部分を残していたのか、
どの部分がバッティステッリの補筆の部分なのか、
もう聴いただけですぐにわかるわけです。
考えようによっては、これは良心的な補筆といえるのではないか?と

第4幕のフィナーレなんてすさまじいですよ。ほんの一部分のヴァイオリンパートだけ
ドニゼッティがスケッチ残していたんだな、ってすぐわかります。
ほかのパートがカオスですから(笑)。

補筆っていうものは結局どうしたって本物にはなれないわけです。
様式的に合わせようと努力したって、どうしても本人のものじゃない。
これは当たり前のことです。
じゃあ、開き直って、こういう風に、どこがオリジナルでどこが補筆か、
はっきり分かるようにしておく方が、あるいは良心的なのかもしれません。
補筆というもののあり方を考えさせる補筆でした。

2013年1月13日日曜日

頑張れドニゼッティ研究者

最近はロッシーニばかり聴いていて、
久しぶりにドニゼッティを聴いてみました。

「ゴルコンダの王女アリーナ」




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1828年初演作品ですから、ロッシーニはもうパリにいる時代ですね。
ロッシーニのパリ時代の諸作品は、たしかに絢爛なパリの様式を
感じることができますが、ロマン派というには、
私はなにか戸惑いがあります。
どこか、古典的均整を強く感じたりします。
有名な「ウィリアム・テル」のシンメトリー構造などその最たるものでしょう。

そういうロッシーニをずっと聴いて慣れてきて、
ますますロッシーニの天才を痛感していましたが、
上記ドニゼッティのあまり有名でない作品を聴いて、
ドニゼッティはロマン派なのだなあ、と強く感じました。

まあ、これは演奏者たちがあまりにも熱演過ぎる、ということも
関係があるのかもしれません。
20世紀初演のライヴ録音なのです。

この作品はしかし、「セミセリア」といういささか古い形式です。
ロッシーニでいいますと、「どろぼうかささぎ」や「チェネレントラ」 などが
「セミセリア」のジャンルに属します。
これがまた説明困難なんですが、セリアとブッファの中間、というわけでもないんですよ。
むしろ様式的なジャンルとしての分類でして、
典型的な筋立てとしては、いわゆる「救出もの」があります。
セミセリアではありませんが、お話的には、
モーツァルトの「後宮からの誘拐」やベートーヴェンの「フィデリオ」を
思い出してください。ブッファ的な役柄
(前者のオスミンや後者のロッコ)、
セリア的な役柄(前者のセリム、後者のドン・フェルナンド)、
そしてヒロインと主役ですね。
こうした筋立てが好まれた時期があり、それにふさわしい様式として
セミセリアというものが現れたようです。

ドニゼッティはしかし、この「セミセリア」の最後の巨匠ともいえる人で、
晩年の「シャモニーのリンダ」も「セミセリア」、しかも救出ものです。
それはドニゼッティの気質と関連していたかもしれません。

さて、上述の「アリーナ」ですが、
ロッシーニのパリ時代初期と同時期とは思えないほど、
ロマン的芳香がかなり強いのでおどろきました。
パッパーノなどはヴェルディの書法に決定的影響を与えたのは
ドニゼッティではないか、と言っていますが、そうかもしれませんね。
反対に、ドニゼッティ初期はロッシーニの亜流といわれることもありますが、
確かに影響は避けられないでしょうが、亜流とは思えません。

ところでこの作品、こんなにマイナーな作品なのに、
フィナーレが3種類もあるそうです。
ここでの演奏は、時代的に一番ふさわしと思われる
ロンド・フィナーレを採用しています。

さて、ドニゼッティについて考えてみました。
ロッシーニにはペーザロという聖地があり、
ゼッダら献身的で勤勉な研究者と、
ロッシーニ歌手たちによって、
最新の研究成果をロッシーニ音楽祭という舞台で
毎年世に演奏を送り出しているという、
すばらしい循環が出来上がっています。

対して、ドニゼッティは、生地ベルガモで音楽祭をやって、
いろいろ復活上演などされていますが、
ロッシーニほど研究は進んでいない状況です。

たとえば、彼のもっとも有名な作品の一つ「ランメルモールのルチア」、
その狂乱の場の調性が本来の調性(複雑に変化します)に戻されたのは
実に最近のことで、それまではト長調で統一されているような
印象に改変されていました。
さらには、この狂乱の場でのフルートとハープのカデンツァは
まったく第三者の創作であるばかりでなく、
そもそもオブリガート楽器はフルートではなく、
機械式のグラスハーモニカということで、
そういう本来の形に戻されたのも21世紀になってからです。

重要なのは、「もっとも有名な作品でさえそうした状況」ということです。
ロッシーニの作品が次々と最新研究の成果を踏まえて
クリティカル・エディションを刊行し、ペーザロで上演する、
そうしたことがどんどん行われているのに、
ドニゼッティはまだまだこれからなんです。
そして、「ルチア」でわかるとおり、彼の作品は
かなり改変されているようです。

ベルガモもペーザロのように、ドニゼッティ研究・演奏のメッカと
なることを祈りたいと思います。
がんばれ、ドニゼッティ研究者!