投稿の題をご覧になって、
ん?旋律は美しいにこしたことはないじゃないか、
とお考えのみなさん、私もそう思っていました。
器楽作品などではそれでいいのかもしれませんが、
ヴェルディの中期作品を考えるうえで、
結構「功罪」両面がポイントになるのではないかと、
いろいろ考えることがあったので、書いてみます。
ヴェルディ中期といわず、全ヴェルディ作品でも
人気の高い「リゴレット」「トロヴァトーレ」「トラヴィアータ」の
3作品ですが、この3作はヴェルディが究極的に
大アリア形式(シェーナ‐カヴァティーナ‐シェーナ‐カバレッタの定型)を
追求した最後の作品であることは指摘されているところですが、
逆に考えれば、つまりは究極的に旋律美を追求した、
とも考えられるわけです。
実際、この3作品は、それぞれの方向性・性格の違いはあれど、
ヴェルディの中でもとりわけ印象深い旋律にあふれていることは
共通して言えると思うのです。
いいことじゃないか、というのはそうなんですが、
リゴレットに関して、ある方と話していてハッとしたのです。
「リゴレットは笑われなくちゃいけないんですよ、
どんなに真面目に怒っても憐れみを求めても。
実際に歌ってみて気が付きました。」
リゴレットは道化です。
その呪われた宿命からは逃れられない、
楽譜を読み込むとそうとしかとれない、というのです。
モンテローネ伯爵を嘲笑の的にしたリゴレットは、
まさに「呪い」のように、自身にも不幸が降りかかるわけで、
愛娘ジルダを返せ、という彼の怒りの様子は、
音楽が迫真なだけにその旋律にまかせて歌ってしまう罠があるのですね。
確かに、リゴレット自身は真面目に怒らなければならない。
でも、観客は廷臣たち同様、それをみて笑う気持ちにさせなければならない。
そうなんです、オペラは演劇なんですよね。
ヴェルディが果てしない同情を寄せて書いた
リゴレットの旋律は、その美しさゆえに、
それだけでドラマを作り出してしまう。
それは歌い手にとっては落とし穴でもあるということなのです。
「トラヴィアータ」ではどうか。
ヴィオレッタに息子と別れてくれ、と迫るジェルモン。
第2幕の2人の二重唱の胸に迫ることといったらありません。
わたしはたびたび泣きそうになります。
ところで、演劇的にこの場面を考えたらどうか?
「かわいそうに、お泣き」と言うジェルモンは、
はたして本心からそう言っているのか。
この二重唱の旋律があまりにも真に迫りすぎ、
私たちはほとんど他の可能性を考えられなくなります。
が、歌詞だけで考えると、
息子と別れてほしい一心で、
みせかけの同情をよせている、
という、あまり考えたくない可能性も排除できないわけです。
ヴェルディの旋律はあまりにも美しく、同情に満ちています。
が、あまりにも美しいため、演劇的にも
美しい解釈しか許されない、というのはどうなんでしょうね?
興味深いことにこの3作以降ヴェルディは大アリア形式と決別します。
私が考えるにこの3作はヴェルディが旧来の形式と旋律美を
徹底的に追求し、そしてそれでどこまで演劇的に
核心に迫れるか、その実験だったように思えてきました。
上記の2つの例だけでも、あまりにも美しい旋律は、
演劇的な解釈の幅を狭めてしまう、
そんな「罪」の部分をヴェルディも感じたのではないでしょうか。
なにかのきっかけでお立ち寄りいただいたみなさん、
今年一年ありがとうございました。
また来年もよろしくお願いいたします。
それではよいお年を。